夢幻の灯火10.彩り

  • 2008/10/21(火) 21:10:34

10. 彩り

 目覚めの悪い朝二日目。頭が痛いのはなぜだろう。そう、これは二日酔いの朝の始まりだ。
 菅野のぼやけた視界ではカマキリが羽根を広げて飛んでいる。こいつはあまり喜べない気持ち悪い幻想だ。胃のむかつきは少々だが、光り輝く朝日が窓辺の向こうから降り注ぎそいつがとても目に刺さり頭が痛い。
 荻野はまだ眠っている。
『皆もまだ眠っているのだろう』と菅野は二度寝に入ろうとするが、二日酔いの朝は覚醒を呼び起こし、菅野を眠らせてはくれない。だから仕方なく菅野はダルダルと体を起こして水道の蛇口を捻り、水を注ぐ。一気に飲み干して「ぷはぁ」と言う。
 部屋の明かりがついている。昨日消し忘れたことを思い出す。壁際のスイッチを消すとキッチン側がかなり影になった。
 菅野は突っ立ったまま、ぼおぉっとしていた。何をしたらいいか思いつかない。いつ以来の早起きだろう。何しろまだ七時前だ。
 耳を澄ませば、外では鳥が鳴き喚いている。
「お決まりのテンション!!」と、菅野は大声を上げる。
 荻野は起きない。
「さあ、今日も朝だね。やっぱし、夏は朝だね」
 この不快に負けないテンションで行く。
「うおお、朝だよ、朝!」
 そして菅野は壊れたテンションのままに家の中をドタドタと歩き回る。
 陽子さんの部屋の扉が開き、眠い目をこする陽子さんが登場する。
「どうかしました?」
 浴室のほうにいる菅野に向かって陽子さんは訊ねる。
「おい、新稲、やってんのか?」と言って、菅野は荻野の部屋を開ける。
 でもそこには誰もいない。ベッドのシーツはだらしない格好をして床に垂れている。辺りは整然とし、開いた窓から風が吹き込んでくる。
「何で俺、こんな事?」と、菅野は我に返ってぼやく。
 思い出してみる。不機嫌な朝を嫌う菅野はテンションを上げた。それはいつもの事だ。そして奥に部屋から順に寝ている奴を無理やり起こそうとした。そしたら荻野の部屋にいるはずの新稲と優作がいない。もぬけの殻となっていて、ただ部屋の窓が開いていた。
 菅野は荻野の部屋に入って、開いている窓から外を見やった。柔らかい土の上を誰かが歩いた形跡がある。その先は硬い土で足跡は消えているが、普通に真っ直ぐ行くときっと深い森の中へ通じている。
 陽子さんが荻野の部屋に後から入ってきた。陽子さんは菅野と目を合わして言う。
「どうしたの?優作君と佐知子ちゃんは?」
 しばらくぼおっとして時間が過ぎると、我に返った菅野は言う。
「窓から外に出て行ったんだ、きっと。てことは、急がないと大変なことになる」
「どうしましょう?」
 陽子さんは動揺して、そう答えた。
「陽子さん、昨日あなたたちが行った神社があるりますよね。俺をそこに案内してください」
 菅野は何の準備もなく咄嗟にそう言っていた。昨夜からいろいろと頭の中を回転する中で菅野は一つの答えに導かれていた。それが全てにおいて正しいかどうかはわからないがやるべきことがあるとしたらそれしかなかった。菅野はイメージの中にあったやるべき事を自然と口に出して行おうとしていた。
 陽子さんは言われるがままに頷くしかなかった。
「ちょっと待ってて。着替えてくるから」
 陽子さんはそう言うとそそくさと荻野の部屋を出て、自分の部屋に戻っていった。残された菅野は部屋にあるべき証拠を探そうとしてみた。勉強机の上に菓子パンと水の入ったコップが置かれている。しかしそれに特別な理由は考えられない。
菅野は落ち着きのないままに部屋を出て、一応浴室の方を見てみた。もちろん変わった様子はない。次にトイレのドアを開ける。誰もいない事を確信してすぐに玄関の外に向かう。眠たそうな荻野がテーブルから起きて立ち上がり背伸びをする。なんとなく慌ただしい状況に頭を抑えながら外に出て行った菅野を追う。
「どうかしたんですか?」
 荻野の自然なその台詞に菅野は振り返り答える。
「新稲と優作がいなくなった」
 荻野は少しびっくりする。
 誰も何も思い当たる節はない。着替えの終わった陽子さんと、陽子さんに連れられたかずよが外に出てくる。
「さあ、行きましょう」と、陽子さんが気合の入った様子で言う。
「どうしよう。まだ、優作君に会ってないのに」
かずよは少しばかり慌てふためいている。
 それから何をしている暇もなく、それ以上の準備もないまま四人はぼやけた朝日の下を神社に向けて歩き出す。

 ずっと遠い森の先で優作と新稲は朝焼けに照らされていた。木々の隙間を縫い、朝靄の雫を落としながら太陽の光は深い森の奥へと向かっていった。
 優作と新稲はその光の入り口に眠っていた。どこをどう歩いてきたのか、新稲にはさっぱりだったが優作と新稲は切り断つ崖の上にいた。遠くで滝の音がしているようだった。大量の水が滝壷に流れ落ちる音が小さく幻聴のように聞こえている。優作は新稲の膝の上で眠っていた。新稲はそんな優作を見つめながらじっと時間が経つのを待っていた。
 この先に待ち受けるものを理解しようとしつつもここにおける時間を惜しむように新稲は静かな表情を浮かべていた。

 ログハウスの裏を上ってゆくとその先には小さなお宮がある。この道は要するに初めて菅野が荻野さん宅に来たときの道の途中にあり、荻野さん宅から無理な道に入らずに進んでゆくと行き着くところに存在する。
「ここを開くの」と、かずよは言って、何のお構いもなしにお宮の扉を開く。
「おまえ、ばちあたるぞ」と、菅野はつっこみを入れる。
 その声を気にせずにかずよは暗闇下を見つめている。
「あ、懐中電灯忘れた」と、陽子さんが言う。
「大丈夫よ。わたしはいつも暗闇の中を歩いてゆくの。そのほうが何か望みが叶いそうでしょ?」
 かずよはそう言って、暗闇の階段を降りてゆく。
「まじっすか?」と、菅野は驚く。
 かずよの小刻みのよいテンポの歩きとは別に、三つの酷く恐る恐るした足取りの足音が暗闇の中に響き渡る。
「これなら懐中電灯を取りに戻ったほうが早いんじゃないの?」
そんな陽子さんの声が亡霊の言葉のように響きこだまする。
「陽子さん、響く声が気持ち悪いから、喋らないでくださいよ」
 菅野はそう言うが、その言葉が響いて、また恐る恐る足音を響かせる。
 いずれは達するであろう。そして暗闇を抜けてゆく。視界のない世界の扉を押してその先を行く。わずかな音も際立ち、触れる感触が存分な世界を味わう。菅野たちはその空洞を抜けてゆく。
「どこに行くの?」
「もうすぐ辿り着く」
 この先を知らないかずよは疑問そうに尋ね、荻野は極めて冷静な態度を装ってその疑問に答える。
 光はずっと向こうで漏れている。一度開けた扉は戻るときから閉めていなかったのだ。辿り着く場所を見て、かずよはひとまず安心する。
 わずかな光がとてつもなく明るい。かずよは暗い世界をお別れしたくて、軽く弾んで先を行こうとする。
「危ないぞ」と、荻野が注意する。
「大丈夫!」と大きな声で言い返す、かずよの声が通ってきた空洞を駆け抜けていく。
 暗闇を抜けて、その天を飛び出て、外光の下に菅野は出会う。木々の精霊が四人を迎え入れてくれる。光の具合が天国に一番近い場所のように優しい。小鳥の囀りが心地よく、そこにある全てが美しく混じり合わさって輝いている。
 菅野は一人、ただ一点を見つめていた。
真っ直ぐ天へと伸びる木の下で少年は体育座りをして座っている。そいつは下をうつむいて、お経を唱えているかのように独り言を呟いている。
 その姿に菅野以外は気づかない。その幻想は生きる亡霊、全てを忘れようとしている、たった一つの優作の心なのだ。

 僕はここにいる。このままどこに行く気もない。夢の谷間に落ちてゆく。ずっと静まり返る。全てが嫌になった。

 言い訳を聞きたくはないと、菅野は口を開いた。
「やっぱしここにいたのか」
 近くにいた皆は誰もその言葉の主旨がわからなかった。陽子さんはキョトンとそんな独り言をほざく感じの菅野の顔を見つめた。菅野はそんな陽子さんを見てから皆を見回して言う。
「今から言う事に、誰も口を出すな。これは大切な問題なんでね」
「よくわかんないけど、あの人何かできるのかな?」
 ひそひそ声でかずよは荻野にそう訊ねる。荻野は何も言わずに頷いて、にっこりと菅野の方にお辞儀をした。
「かずよちゃん、ここは彼に任せよう」
 荻野はそう言って菅野に背を向け離れてゆく。それを見てかずよと陽子さんも後に続いて離れてゆく。三人は菅野から遠く離れ、菅野の視界に確実に入らない位置で菅野の方を見守っていた。
 菅野はそれを確認してから再び亡霊の優作に話し出した。
「ただの勘でね。あんたがここにいると思ったのはね。わからないことがたくさんあってねえ、理解できない問題の中、それでも突き進まなくちゃならないだろう?だから俺は勘に頼るんだ。そんな考えを持てるようになったのも、つい最近だけどね」
 菅野は亡霊の横に座る。そして何の反応も示さない亡霊にさらに言葉を投げかける。
「俺があんたに話し掛けることで、どうなるかなんて、なあ。ただ、今はこうするしかねえんだよ。できることは全てやるさ」
 話し出さない亡霊に菅野はさらに続ける。
「あんたの事は大体聞いた。この世界にいない、存在しない。自分の世界に戻りたいんだろ?あっ?今はただ、戻ったつもりになっているだけなんだろ?あっ?」
 菅野はそう言って、亡霊の足の下に見えた宝箱を見事なスピードで奪い取る。亡霊は初めて大きな反応を示し、菅野を強く睨んだ。
「この中に何があるんだ?」
 菅野は亡霊を挑発しながら宝箱の蓋を開ける。

 全ての思い出を君は見るだろう。それは僕の夢でしかない。夢の現実。それが僕における最高の宝。

 菅野はそこから広がる世界を感じていた。言葉では言い表せない自然の色が世界を覆う。大切にしていた楽しい家族や明るい友人、優しい恋人の笑顔が浮かび上がる。この先の夢に包まれる事の幸せ、勝手に描いた幻想の自由。子供の頃、未来に描いた勝手な夢と同じような物を菅野はまじまじと見つめている。
 菅野には信じられなかった。その宝箱の中にあったのはあまりに綺麗な夢だった。菅野はその美しい夢を鮮明な現実と同じくらいの感覚で捕らえていた。
 それは現実ではないはずなのに、優作はそれを完全な過去として持っていた。だから菅野は一つだけ思った。
「それはおまえの描いた幻想の過去だろう?こんな現実なんてありえない。おまえが勝手に描いた過去の思い出だ」
「違う!」
 初めて亡霊は口を開いた。
 開いた宝箱に広げられた綺麗な街の昼下がりの公園の中で二人は話をしていた。幻想に覆われた世界に菅野は吸い込まれていた。
「綺麗だよ。あそこでブランコを漕いでいるおまえとおまえの家族?いい光景だな。でもそれはおまえの夢だろ?」
「違う。あれが現実だ。僕が育った世界だ。僕の世界だ。君が住んでいる色褪せた世界とは違う」
「ああ、確かに、ここは色褪せてない。俺たちの世界はここからしたら色褪せている。でも現実ってそんなもんだろう?いいかげん目を覚ませ。きっとおまえは何かを勘違いしているだけだろ?」
「僕は何も勘違いしていない。僕はここで育ったんだ。ただ君と住む世界が違うだけなんだよ。理解すべきなのは君のほうだ」
「おまえの全ての世界がこうじゃない。ここはおまえの思い描いた幻想の過去だ」
 菅野は自分にできる幻想の想像力から優作の世界にある別の映像を探す。どこかに汚れている汚い部分が存在する。過去の思い出には悪い部分もきっとあると、菅野は考えている。
「僕の世界に勝手に入り込むな!勝手に動き回るな!」
 菅野は亡霊のその台詞を聞こうとしない。自分の脳と優作の世界を彷徨う。次から次へと美しい光景が生まれる。晴れた日の太陽は燦燦と輝いて、雨の日の雲はゆったりと流れてゆく。夏の暑さも心地よく、冬の冷たさも心地よい。生きている感情の全てを掘り返して、自分に失っていた生に対する喜ばしい実感を取り戻す。
「これが現実?」菅野は思わずそう呟いた。「これが現実で、むしろ俺が非現実を彷徨っていたのか?」
 吸い込まれてゆく。美しさは風情だけに留まらない。学校の夕暮れ時を下校する学生たち、ある者は友人と騒ぎながら、ある者は恋人同士で手をつなぎあって、そしてその中には優作もいる。暗がりの映像はどこにも介在ない。
「勝手な想像は俺だったのか?いじめられてたあいつは俺の勝手な想像?家庭環境がボロボロだったあいつは俺の勝手な想像?女に酷いふられ方して学校に来れなくなったやつは俺の勝手な想像?本当はそんな不幸な奴なんて存在しないのか?悪いことなんてこの世に存在しないのか?」
「そうだよ。これが現実なんだ。わかるだろう?君もこういう世界で生きていただろう?」
 菅野は自分の過去を考える。本当は物静かな男だった。友人のいない男だった。親は共働きで、毎晩酒を飲んでは喧嘩していた。思い出によって、過去が変わってくる?思い出によって、この世の見方が変わってくる?と自答する。
「俺は、違う。違う」
 菅野は自分の過去を見つめた。そして美しい風景の全てを捨てた。
「現実はここにあるだけだ」
 思い出を宝箱に放り戻す。
「おまえが勝手な想像を作ってきただけだ。現実はそんなに美しいものばかりじゃない。現実はもっとつまらないものだ。でも、俺はその中から、自分の望めるものを選んで生きてゆこうと思っている」
「それなら、君はそれでいいじゃないか。僕はそれじゃ嫌なんだ。君の住む世界の現実には居たくない」
「残念だけど、おまえの住む世界なんて本来存在するはずはない。多分あんたは何かの薬か何かで、いい夢を見せられていただけさ。それから目覚めて、現実を見たとき、全てが嫌になったんだ」
「僕は僕の世界に眠るんだ。それでいいじゃないか」
「それがよくないんだ。あんたは現実に住む人間を連れ去った。現実に住む人間が持つ小さな頼りを盗んじまったんだ」
「何のことかわからない。僕はそろそろ自分の世界に帰るよ」
「あんたは、自分ひとりで自分の世界に帰ることを怖がった。それで新稲の命も道連れにしようとしている。そうだろう?隠すな、本当のことを言え!」
「それは僕の望んだことじゃない。彼女の望んだことだ」
「新稲は君との暮らしを望んだ。いろいろな苦しみから逃れようとして、夢に溢れているあんたの世界を望んだんだろう?でも現実に生きてゆかなくちゃ、死んじゃうんだ。あいつは現実の人間だ。君と同じ夢の中には生きられない」
「僕の邪魔をするのはやめてくれないか。僕は僕のまま、彼女は彼女の思うまま、君はただのお節介だよ。余計な真似だよ」
「俺だけじゃない。彼女に生きてほしいと願う人間はたくさんいる。陽子さんだって、荻野さんだってそう思っている。だから俺は俺にできる能力として、それをおまえに伝えているだけだ。わかるだろう?」
「もう話しても無駄だよ。僕は行く。彼女は僕が何て言ってもついてくるさ」
 亡霊は自分を失おうとする。体の覚醒を目指して目を瞑る。
「それでも、生きようとしないのか?新稲は死んだらなくなる。存在しなくなる。てめえは新稲の存在しない夢の中で生きてゆくんかよ。おい、てめえは新稲の事を愛してねえのかよ。どうなん?」

 渓谷の朝焼けを浴びて、優作は目を覚ます。遠くの空でホロロギ鳥が鳴いている。新稲は夢を見る目で、天の先の赤い鳥の輪を見つめていた。
「君を抱き締めることに、どれだけの価値があるのか?」
 目を覚ますなり、優作はそう呟いた。それを聞いて新稲は優作の目を見た。
「わたしはあなたの望むがままで十分です」と言った。
 ずっと天の空を望めば何かに気づくだろうか。ふと誰かがそう言った気がして優作は天を仰ぎ見た。おぼろげな空を赤い鳥が舞っている。
 優作は新稲の膝から起き上がる。そしてずっと下に落ちる切り断つ崖を見下ろした。優作の体は不安定に揺れている。新稲は座ったままに優作を見つめ、言った。
「もし、その下に行こうとするのなら、私も一緒に参ります」
おぼろげな霧の靄が下に広がる森林を覆い隠している。小さな石ころが優作の足元から崖の下へと落ちていった。優作は心臓を鼓動させていた。心臓は激しく鼓動していた。自分の居場所を思い、優作は一歩崖から遠のいた。そして座り込んで目を瞑る新稲の後ろに回り込む。優作は後ろからそっと新稲の体を抱き締めた。その感触に抜け殻の優作は安心した。
新稲は背中に感じる激しい心臓の鼓動を感じて目を開いた。
「それがあなたの望みですか?」
 肩越しの優作を見つめるとすでに優作は深い眠りついていた。

「僕は、何を求めているんだ?」
 自分の体を失えない亡霊は不安を募らせ、そう言った。
「わかったろ?おまえは現実で生きる理由を持っているんだ。もう、おまえは消えることができない。おまえの望みどおりにはならない」
 優作が新稲を求めたのを予想した菅野は強がってそう言い返した。
「どうして?」
 亡霊は呆然としていた。菅野は確かなイメージを自分の脳裏に浮かべていた。
「おまえの中にあるイメージが全て美しいものであったら、苦しみは存在しない。でも、現実には苦しみが存在する。それでも人はその苦しみから逃れようといろいろな事を試す。考え方だけじゃどうもならないことだってある。だから体で求める。本当に苦しい時に望めば、それは過ちにもなるけど喜びにもなる。脳の中のイメージだけじゃ生きられない。だから亡霊は死んでいるんだ。わかるだろう?想像だけじゃ生きられない」
「それなら、僕はどうすればいいんだ。僕はどうしたらいいんだ?」
 苦しみ出した亡霊が菅野に答えを求める。
「生きてゆくしかないだろ?この世界で。苦しみながら生きてゆけよ。おまえは運がいい。新稲がいるじゃないか。新稲はてめえの体を求めている。そしててめえの体は求めてる。新稲をな」
「体が生きていても、僕は死体だ」
 亡霊はそれでも自分の存在を絶対の物としようとする。だから菅野は言ってやった。
「そうでもないぜ。体がおまえを助けてくれるさ。体がおまえに与えてくれるやつもある。おまえの記憶に残るいいやつもな。だから今は諦めて素直に体に帰れよ。そして体と共に生きてゆけ」
 亡霊はその言葉に黙り込んだ。そしてじっと自分の宝箱を見つめていた。しばらくの静けさが辺りを包んで菅野はその先が来るのを待っていた。
 長い沈黙が続いた。風の揺れが辺りをざわめかし、変わりやすい山の空に雲を呼んだ。
「彼を呼び寄せるよ」
 亡霊は小さな声でそう呟いた。菅野は何も言わず、縦に首をゆっくりと振った。
 遠くで雨を降らせそうな強い風の音がすると、亡霊は再び深い眠りに就いた。菅野は遠く消えてゆく、優作の色鮮やかな思い出を反芻しながら亡霊の下を立ち退いた。

「行こう。僕は足らないものを取り戻さないと」
 優作の体はそう言って立ち上がった。自分の体から離れた優作を見て新稲もすぐに立ち上がった。
 優作は新稲の手を引いてどこかわからない方向へと歩き出した。
「どちらへ行かれるのですか?」と、新稲は訊ねた。
 それでも優作は何も答えず、一方向を目指して道なき道を前進してゆく。生い茂る草花を掻き分け、羊歯も虫もぬかるんだ土も気にせずに木々を避けながら道なき道を突き進んでいった。

 それからどれだけの時間が過ぎたろう。空は真っ暗闇になり、激しい雨が降り出してきた。それでも木の葉に覆われた森の下では、大露こそ滴れど雨水が直接降り注ぐことはない。菅野ら四人の待ち人は大きな木の下に体を寄せて、じっとしていた。
 新稲の手を引く優作は全く反対の方から現れた。菅野はそれにすぐ気づき、再び亡霊のいる方へと近づいていった。
「菅野さん!」
優作の姿に気づいたかずよが叫ぶ。
「任しとけ」と言って、菅野はかずよの方に手を振る。
 新稲と菅野が亡霊の眠る木の下で再会を果たす。
「菅野さん」と、新稲は言った。
 菅野は微笑みながら新稲の泣き出しそうな顔に手を触れた。
 優作はそれと関係なく繋いでいた新稲の手を離れ、菅野だけが目にしている亡霊のほうへと向かっていった。新稲は手のぬくもりがなくなった事に不安を感じ、優作の体を追おうとする。
「あいつを追うな!」
 菅野は強い声で叱るように、新稲にそう怒鳴った。
「しかし…」
 新稲は不安を隠せない。
「もう、終わろうとしている。奴は君と生きることを決めた」
 その言葉を新稲は理解できない。少し首を捻り、素直に菅野の目に訊ねる。
「どうなると言うのですか?」
 弱々しい新稲の声が菅野の耳に響いた。あらためて見ると新稲の顔は泥や草葉で汚れ、とても衰弱しきっていた。優作に連れ回された新稲も、決してまともな状態ではなかったのだ。その状態を気遣いながらも菅野は一つの答えを言わざるをえなかった。
「藤村優作は現実に生きるんだ。あいつは、おまえにはわかるかもしれないが、綺麗すぎる思い出を持っている。俺たちには到底理解できないような綺麗なやつだ。あいつはそれにしがみついて生きていた。だけどそれを止めるんだ」
「それはつまり、彼がどうなると?」
 新稲は恐れていた。優作が自分との時間を忘れ、またただの青年に戻り、自分の知らない人間になってしまうことを。
 それでも、菅野は言った。
「あいつは本来の自分になる。そしてこの世界で生きてゆくことを認めるんだ」
「私の望む彼ではなくなると?」
 菅野はすぐにそれを否定する。
「少なくとも、おまえを無視するような奴にはならないさ。奴にはおまえが必要なんだ。確かに最初は戸惑うかもしれない。でも、現実で生きてゆくとはそう言うものさ。わかるだろ?おまえはきっとやっていけるんじゃないの?」
 新稲は少し考え込んだ。雨が降りしきり、葉っぱを雨露が揺さぶる音が響く。幻想の薄暗さの中でそこにいる個性は彩られている。
 新稲の視線の先には優作がいた。一人ポツンと、天にも伸びる木の下で立ち尽くしている。菅野は同じ方向を見つめた。
亡霊は立ち上がり、今にも生ける屍である優作の体に入り込もうとしていた。
「おまえには見えないだろうけど、優作は今、生き返ろうとしている。失った頭脳と、おまえの求めた体が一つになるんだ。新稲、あいつを認めてやってくれないか?」
 菅野のその言葉を新稲はどう受け取っていいかわからなかった。新稲はいろいろなことを恐れていた。それをうまく表現することができない。ただ変わってゆく状況に、自分が対応できないような恐れを感じている。
「全てが終われば、俺だって、おまえの助けになるさ。きっと荻野さんや陽子さんも助けになってくれるから」
 菅野は珍しく優しい顔で慰めた。
 天に伸びる木から優作が歩いてくる。一つになった優作はまだ自分を上手に扱えない。今にも転びそうな足取りでフラフラの菅野と新稲のいる方へと近づいてきた。
 菅野は新稲の背中を押した。新稲は押された一歩で立ち止まった。

 一緒なのに何が違うんだろう。本当は僕も彼女を求めていた。僕はいったい誰なんだろう。もう、それを求めるのはやめよう。だから君もやめてくれ。僕はここにいる。それを君も僕も理解できるさ。

 優作の瞳はすでに赤と黒の揺れを持っていなかった。
 二人は互いに数センチの所まで近づいていった。そして優作は咄嗟に口を開いた。
「僕の名前は藤村優作って言うんだ。君の事が、とても好きになった。一緒に、なって、くれる?」
 最初は下を向いていた新稲が顔を上げ、優作の顔を見つめた。優しく純粋そうな目が、かすかに潤んでいた。
「私はあなたに出会うまで自分を失っておりました。あなたがわたしを包み込んだことが本当ならば、わたしはもっと正しい自分になれそうです」
 新稲がそう言うと、優作はにこりと微笑み、新稲の唇に軽くキスをした。
「これが僕なんだ。駄目かい?」
 新稲は首を横に振った。
「いいえ。全ては大丈夫です」と言った。
 それを見届けて、菅野は一人、暗闇の地下へと足早に消えていった。
 ずっと遠くで見守っていた荻野たちが二人の側に近づいてゆく。やがて和やかな会話が訪れて、雨は少しずつ弱まっていった。再び空が青く晴れ渡る頃には、新しい現実が待ち受けている。そこは菅野の言うような厳しいばかりの世界ではない。色褪せていた世界は急激に色を取り戻す。生きる世界はきっと飾られるだろう。優秀の美の下に優作たちは生きてけるだろう。

夢幻の灯火 9.最果て

  • 2008/10/11(土) 14:52:17


9. 最果て

 彼は夢に眠る。新稲はあの日と同じ時間を過ごし、彼を優しく見守る。眠る優作の横顔に愛らしい目を向ける。
 今もきっと優作は宝箱を見守っているにちがいない。その部分と違う優作がもうすぐ目覚めることだろう。寒い冬に反した温かいホテルの一室で過ごした時間と、同じ優しさを含んだ優作がきっと目覚めるにちがいない。新稲はその嬉しさをずっと脳裏に含んで、夢の中に眠る男の目覚めを待ち望んでいる。それが唯一の本当の自分に戻れる時間であることを、新稲は強く予感していた。
 優作が目を覚ましたのはそれから数分後のことだった。夕闇に覆われた小さな光が窓辺より降りかかり、その場の温かい雰囲気を際立たせた。
 それでもお互いはすぐに口を開くことができなかった。互いには何も言おうする言葉がなかった。時だけが過ぎゆく。
夕闇が遠ざかるのを感じたそのとき、新稲は自然と最初の一言が口から出た。
「何かほしいものはありませんか?」
「寒い。とても寒い。そして悲しい。だから僕は温かいものがほしい」
 優作は新稲のほうを見て体を起こした。何もせずに椅子に座っていた新稲を優作は呼び込み、その体を抱き寄せた。
「温かいなあ。君は生きているんだね」
 頬と頬が重ね合う。それからゆっくりと頬と頬を擦りあい、最後に唇と唇を重ね合わせた。新稲は弱い力になされるがままに流されてベッドの上に横たわる。
 僕の孤独は満たされない。ずっと温かいぬくもりを望んでいるよ。
 優作は新稲の体中を求める。熱を持つ体に手をかざす。温かい夢の世界が体中へと伝わってゆく。その求める手は本能のままに、それでいて弱く優しい感触を携えている。新稲はその柔らかさを愛し、自らの孤独を消していった。
 互いは互いのままに柔らかく、そして緩やかな流れのように、気持ちの落ち着くところまで向かっていく。荒れ狂うほどの激しさはいらない。欲望を満たすだけの虚しさも気に入らない。ただ体中の孤独を消し去るほどの愛が欲しい。そして二人は落ちていった。誰もいない宇宙の底に。

「何だそれ?おまえアホじゃないの?」と、菅野は言った。
「あっ、間違えたのはそっちじゃない。ひどーい。何で、あたしのせいになるの?」
「知っているなら、最初からそう言えよ!」
「別の抜け道でもあるのかと思ったのよ」
 これは菅野の車が行き止まりにぶつかったっていうお話だ。ここで大体理解できるが、菅野は結構な方向音痴だ。しかし本人はそれを認めない。
とにかく道を引き返す。暗闇の中でほとんど道の通ずるところはわからない。ライトをハイビームにして道なりを戻る。

「このままずっとここにいるのですか?」
 新稲は薄いシーツに包まり、後から抱きしめて眠る優作に訊ねた。
「わからない。僕は、何も知らない」
 優作のその言葉に新稲は体を反転させた。優作の目をずっと見つめると黒目が揺らいでいた。昔、優作が描いた赤と黒の絵のように優作の瞳は揺らいでいた。
「その目から何が見えるのですか?」と、新稲は訊ねた。
「夢を見ているんだ。優しい女の子を見ているんだ」
「それはわたしです」
「そうか、君か。それはよかった」
「このまま眠りましょう?」
「ああ、僕はすでに寝ているのに」
 そして深い眠りに落ちてゆく。
 新稲は一度ベッドを離れ、その部屋の明かりを消した。そして暗闇の中、再び優作に寄り添った。優作の手が新稲を抱き寄せ、静かな時間が暗闇の中に消えていった。

 また広い道路に出れば、かずよはやはり言う。
「何であんな怪しい道を曲がっていったのよ。どう考えたって、この広い道、一本じゃん?」
「ああ、だって、どっかを右に入るだろう?」
「あんな狭い道じゃないでしょ?何なんだろう、この人」
「ん、たく」
 仲の悪くなった二人はそれでもここで別れるわけにはいかない。ずっと星の上の空を目指してゆくのだ。
 暗闇が支配してどれだけの時間が過ぎたことだろう。それでも菅野の車は再び常識的な道を進み、あるべき場所までやってきた。
「そこのもう少し先」と、かずよが言う。
「おまえ、全部木だけだよ。何を目印にわかるわけ?」
「おじさんが前に言ってたの。道に飛び出たクヌギの木の先を曲がるんだって」
「そんなのあったか?」
「菅野さん、わたしがいなかったら、辿り着かなかったでしょ」
「知らねえよ、そんなの」
 そして右に入る。その細い道を抜けるとおじさんの家だ。
 軽自動車には少し堪えるオフロードを越えて、自家製の電燈で飾られたログハウスがお目見えする。
 へたばりつくような疲れを感じ、車から降りる。さっさと家の中に入ってゆく。
 玄関の扉を開けると陽子さんが嬉しそうに迎え入れてくれた。かずよは久々にあった陽子さんに感激して抱きついた。背の低いかずよは暗闇の中ではまだ中学生くらいにしか見えない。久しぶりの親子の対面みたいだ。すると菅野は娘が母親に会うことをあまりのる気でなかった父親のように、のそのそと家の中に入っていった。
 その家の中で最初に見える光景は、荻野がテレビにかじりつく姿だ。荻野は一人、クイズ番組に見入ってる。
「B、それBだよ。わからないの?おい、だからAじゃねえって」
荻野はそんな独り言をかましている。入ってきた菅野にさほど気づこうともしない。
 菅野は気にせず、勝手に冷蔵庫を開けて麦茶を取り出す。そしてコップに注いで飲んでいる。
 玄関での再会を十分に味わったかずよと陽子さんが入ってくる。
「この人、勝手に飲んでるんだけど」と、少しずついちいち菅野の行動が気になり出したかずよが言う。
「まあ、いいんじゃないの」
 陽子さんは相変わらずおおらかで気さくだ。
「やあ、かずよちゃん」
 テレビ番組がCMに入ったところで荻野はそう言った。
「おじさん、それで優作君は?」
 荻野は不安そうな顔になる。
「今は無駄だよ。会わないほうがいいんじゃないかな?」
 かずよはそれがどんな状況なのか理解できず、首を捻る。
「優作君は今眠っているの。だから寝かせといてあげて」
 陽子さんのその言葉にかずよはうなずく。
「それで、新稲は?」と、菅野。
「ええ、優作君の看病をしているの。今はそっとしておいてほしいって。それより周二君は?」
 いろいろな事が入り乱れている。この二日でまた状況が大きく変わったのだ。
「周二は俺の家にいるよ。正しくは俺が周二に俺の家をあげたんだ。そんで、どこかの見知らぬ女と住んでる」
 その答えに陽子さんはなんとも言えず、ただ首を縦に振った。
「それでかずよちゃん、君があの神社の事をどうやって知ったかを訊きたいんだけど?」
 荻野のその質問にかずよは普通に答える。
「ああ、あれ、ちょっとお宮の中を覗いたら、何か階段見たいのが見えたの。それで中に入っていったら、真っ暗だったんで、わたしが勝手に決めたの。ここを怖がらなければ、大学に合格するって。そしたらある日、優作君がついてきちゃって、あの日はびっくりした。暗闇の下で、誰?って訊ねたら、優作君だったの。だからあたし、普通に、ここに来たら願いが叶うって」
「かずよちゃんの作り話なんだ」と、陽子さんが不思議がる。
 つまりはなぜ優作はあんな状態になってしまったのか、その理由がわからないのだ。
「俺には状況がわからないんだけど、つまりは優作ってのはどんな状態なわけ?」
 菅野は疲れた頭を抑えながらそう訊ねる。それについて荻野が説明する。
「彼は自分ここのあらずって感じかな?自分が今いる場所が理解できていないんだと思う。菅野君、彼が別の世界から来た人間だって言うの知ってる?」
「ああ、その話はこいつから訊いてるよ」
 菅野は馴れ馴れしくかずよの頭を撫でる。それをかずよは嫌がる。
「そう、それなら話は早いかな」
荻野は今日起きた一通りの話を説明して、最後にこう付け加えた。
「つまり優作君は自分の行き着く場所がわからず、気持ちだけどこかに帰ってしまっているのだと思う」と。
「優作ってやつは過去の世界の幻想を見ているわけだな」
 菅野は薄ら笑いでそう言う。荻野が頷く。
「実はそこで俺の出番があるはずなんだよね。何の事かわからないけど、運命の会社?俺の上司が言うにはそういう事なんだ。この問題を解く鍵は俺にあるってね?」
「つまりはどういう事だい?」
 荻野が興味深い話に乗ってくる。
「あまり深くは言えないね。これは俺自身にも関わってくることだから」
「何か、けちくさい。一番謎なのはあたしから言わせてもらえば、あなたなのよ」
 かずよは菅野に好意的でない。ただ事実でもある。菅野が何者だかは誰も知らない。
「あんたには関係ない。陽子さんに荻野さん、申し訳ないけど、俺が何者かは言う事ができないんだ。わかってくれる?」
「わたしは菅野さんのこと信じていますよ」と、陽子さんが言う。
「同じく」と言って、荻野が頷く。
 かずよは不審がるが、その二人の言葉に何も反論する事ができなかった。
「おなか空いたでしょ?何か食べません?」
 陽子さんがそう言うと、静かな団欒の時間を迎えた。時は少しずつ行き着く場所へと迫っている。

 団欒が終わり、食事が片付けられ、みんながそれぞれにお風呂に入り、就寝の仕度がすんで、本当に寝静まった十一時過ぎ、菅野は一人居間にいた。静まり返る静けさの夏の夜を菅野は蝉の声を聞きながら動き出した。
 叩いたのは新稲と優作がいるはずの荻野の部屋の扉だ。
「おい、新稲、いるのか?」
 返事はない。菅野はゆっくりと扉を開く。何も見えない。そんな中、突然ベッドの方向から声がする。
「待ってください。今行きますから?」
 それは慌てふためいた新稲の声だった。
 ふとこれはやばいと思った菅野は素早く扉を閉めた。ほとんど暗闇で何も見えなかったが、伝わってくるイメージはあった。物静かな新稲にそういった事を想像していなかった菅野は本当に心臓がどぎまぎしていた。
「まさか…」
 菅野は悔しいような、堪らないような、複雑な思いで小さくそう呟いた。
 新稲がラフな格好だけど人前に出られる格好をして現れたのはその五分後の事だった。菅野は現れた新稲の体を一通りちら見した。新稲はそれを嫌がり、電気のついている居間の方に向かった。
 居間に着くとすぐさま椅子に腰をおろした。
「帰っておいでになったのですね?」と、新稲は言った。
 後を追うように菅野はテーブルを挟んだ反対側に腰をおろす。
「おまえなあ、ここがおまえの家のように言うな!」
「迷惑が掛からなければ、私はこのままここを離れないつもりです」
 その言葉に少なからず驚く菅野は小声で言い返す。
「迷惑が掛からないわけないだろ。何もせず、ここに居座るわけだろ?」
「しかし、彼はこのまま放っておけません。わたしが必要です」
「おまえなあ…」
 菅野はそう言って立ち上がる。そして新稲の腕を掴む。
「来い。ここじゃあなんだ。外で」
 菅野は強引に新稲の腕を引っ張って新稲を玄関の外に連れ出す。
 懐中電灯を照らしながら蝉の鳴き声の止まない小道を行く。
「寒くないか?」
 Tシャツ姿の新稲を強引に連れ出してしまった菅野が訊く。夏といえどもこの辺りの夜は少し冷える。
「大丈夫です。このくらいの涼しさのほうがわたしは好きですから」
 その言葉に菅野は頷く。そして何も言わずしばらく歩く。
「菅野さん、青い湖、ご存知でした?」
 菅野はしばらく考える。どこかの国の湖だろうか、それともおとぎ話の湖だったか。
「イタリアの?」
「なんですかそれ?」
「いや、青の洞窟なんだけどね」
「そうではありません。この先の湖です」
 そして目の前に青白く輝く湖が現れる。菅野はよく目を凝らしていた。しばらく見ていない幻想が浮かんだかと思った。しかしそれはどんなに考えても現実のものだった。上弦の月に照らされ、湖は青く輝いている。
 菅野はしばらくびっくりしていた。新稲は言った。
「わたしは最初に陽子さんにここに連れられてこられました。そのとき思い出したのが、菅野さんが最初に発光現象を起こしたときの事です。この湖があの発光現象の色にそっくりな気がしたんです」
 菅野は頷いた。それは明らかで何の間違いもない。
 少しずつ湖が見えてくるにしたがって、菅野はいろいろなことに気づかされてゆく気がした。
 ごちゃごちゃになる前にまずは新稲に言わなくてはならない。
「ごちゃごちゃだな。だけどなあ、まず言っとくよ。俺はあの優作と言う男と話をする。それで結果的にはあいつをどこかに連れ出す」
「それは無理です」新稲は言葉を遮るように言う。「彼はもう眠ったままです。わたしには感じます。彼は大切な思い出に閉じこもり、現在には生きていません」
「おまえはあの男に何を望むんだ?おまえの過去に何があったにしても、おまえはこの世界の人間だろう?あいつと成り立つ意味はないだろう?」
「それでは陽子さんはどうなるのですか?」
「陽子さん?なぜ?」
「彼女も別の世界の人間です。しかし彼女は荻野さんと結ばれました」
「そうなの?」
 菅野はかずよにその事を聞いてなかった。だからちょっとびっくりして、かずよを十分に憎んだ。
「陽子さんはおっしゃっていました。わたしにはこの世界に荻野さんがいる、と。それはつまり、この世界で暮らしてゆくことを認めているのです。私の心は藤村優作さんには届きません。私には荻野さんほどの力も魅力もないのでしょう。しかし私は彼を守っていきたいと思っております」
「まあ、そうだとしても、ちょっと違うなあ。おまえに、あいつを守る魅力がないんじゃない。あいつが一人で勝手に自分の殻から出ようとしてないだけだ。おまえがどうするかは知らない。しかし、あいつをこのままにはしておけない」
「しかし、無駄なんです。彼には話し掛けてもまともな反応はありません」
「新稲、おまえは何も知らない。俺が持っているものを」
「はあ、何ですか?」
 二人は青白く輝く湖に出た。拓けた世界に風がそよぐ。風に揺られ、湖と森の木々が揺れていた。菅野は懐中電灯を草の上に落とし、砂利の上に座った。新稲はそれに気づき、隣に座る。
「俺は、あの男の影と話せる。これは冗談でもなんでもない。マジな話。俺はさあ、ちょっとした事で幻想が見えるんだ。そいつは自分勝手に浮かんでくる、くだらない想像が大半なんだけど、この数日間で気づいたことに、俺には幽霊のようなものを見る力もあるんだ。幽霊だかなんだかわからないけど、染み付いちまった人の念?みたいなの?」
 新稲は何も聞いていなかった。どことなく聞き流し、知らないふりをしていた。それに感づいた菅野は話を変える。
「おまえさあ、あの男に身を捧げるようなまねは止めたほうがいいんじゃないの?」
 それについて新稲は突っかかる。
「なぜ、そのようなことを言うのですか。私はやっと信じられる物に辿り着いたのです。ですから、もうわたしを邪魔するような事はしないでください」
「納得いかないね。眠り続ける人間を相手にするなんて、やめときな。俺があいつの目を覚ます。そのとき、おまえがどうするかは自由だ」
「私は眠っている彼が好きなのです。起きている彼は別の世界の人間でした」
「どっちが正しい人間なんだよ!あん!?起きてる人間が正しい人間だろう?寝ている奴を人間に思うな。何もできねえ。そんな奴に構うな」
「わたしの問題なんです。わたしがそれでいいと言っているんです!」
「じゃあ、俺の問題も含むね。俺は、あいつを呼び覚ます」
「彼に触れないでください。彼は誰よりも弱く、優しい人間なのですから」
「ああ、触れずとも、起こしてやるよ。俺はあいつの亡霊に話し掛けるだけだからな」
 二人は苛立ちの中、そこまで言い合うと言葉を止めた。胸の中に言いたいことは詰まっていたが、それを上手に表現したところで無駄のような気がしていたからだ。平行線は交わる場所を忘れてしまった。
 森のざわめきと蝉の鳴き叫ぶ声だけが辺りを包む。新稲は立ち上がり、ログハウスに帰ろうとする。
「暗くて、危ないぞ」
 菅野は暗闇に消えてゆく新稲にそう言う。
「大丈夫です」
 震えていて、泣き出しそうな新稲の声が伝わってくる。
 菅野はすぐさま立ち上がり、懐中電灯を新稲のいる方に当てる。新稲はそれ以上に何も言おうとせず、小走りに歩き去ってゆく。菅野は新稲にライトを照らしながらその後を付いて行った。
 ログハウスまで着くと、菅野は小走りになって家の中に入ろうとする新稲を止めた。
「言い忘れてたことがある」
 新稲は顔を上げずに答える。
「もう、これ以上話しても何もなりません」
「違う。また別の話だ。彼の事じゃない。君が関わってきた会社の話だ」
 新稲は急いで家の中に入ろうとしていた衝動を止める。菅野は続けて言う。
「俺は多分黒幕と思う奴に会ってきた。あの会社は君が思うような大きな組織じゃない。よくはわからないが極めて単独犯に近いんだ。新稲、君が今日まで取ってきた行動は全て一人の男の考えていたことなんだ。そいつが何で君を操り、俺たちをここに連れてきたのかはわからない。ただ、意味があるとしたら、俺はあいつに従わなければならないような気がする。その全てが解ければ俺は自由になれるし、おまえも好きなようにやれる」
「私は今のままで十分です。彼の傍にいられれば、全ての命令に従います」
「ふぅぅー」菅野は大きく溜め息をつき、「そうか、君の好きにすればいい」と言い加えた。
 家の中の強い電器に目が眩む。思わず視界を失ったところに人がいて、新稲と菅野は驚いた。
 起きていたのは荻野だった。
「いや、眠れなくて」
 パジャマ姿の荻野はビール瓶とグラスを手に持っていた。
「君たちも一杯やる?」
 その問いかけに新稲は何も言わず、過ぎ去ってゆく。菅野はそれを引きとめようとするが、どうにもならなかった。
「何か、悪いタイミングだったかな?」
 荻野はそう言って頭を掻く。そしてテーブルの方に向かう。菅野は自ら食器棚のグラスを取り出し、荻野が腰を下ろした椅子の横に座る。
「いただきますよ」
菅野はそう言ってグラスを差し出す。荻野はそのグラスになみなみとビールを注いだ。
「いやあ、本当、近頃慌ただしい毎日で、こっちも研究が進まないよ」
「荻野さんには迷惑の掛かる事ばかりですね」
 荻野は一気にビールを飲み干して言う。
「来週には一度大学の方に戻らないとならない。本当はずっとこうしてたいんだけど、そう言うわけにもいかないんでねえ。そしたら、ここがどうなるのかと思うと、不安になってきた」
「あなたはこの話に関わるべき人間じゃなかったのかもしれませんね」
 菅野がそう言うと、荻野は真剣な眼差しで菅野の方を見ていった。
「君は、陽子の事を聞いたか?」
「ええ、さっき、聞きましたけど」
「僕は正直言って、たくさんの不安を持って生きていた。問題はいつも山済みだ。流されるがままの人生みたいで、何もないつまらない人生だった。そんな中、彼女は現れた。僕には何がなんだかわからなかった。格好悪いけど、僕は女性に対して本当に駄目なんだ。彼女はそんな中に現れた宝物みたいで、駄目になりそうな僕を助けてくれた。だから、今あるいろいろは仕方ないのかな?ってそう思うよ」
 荻野は自分で自分を納得させていた。人には見た目だけじゃわからないそれぞれの考えがある。そういう感じを菅野は受けていた。菅野はグラスに残っていたビールを空にする。荻野がそれにまた注ぐ。そして菅野は答える。
「そうですね。俺は、自分勝手な物の見方だったかな?この話に関わるべきだの、関わらないべきだの。考えてみればこの話に最も遠いいのは俺かもしれないな。勝手な事を言い過ぎていた」
「何よりだよ、菅野君。今日は飲もう」
 荻野がそう言ったのをきっかけに菅野はグラスのビールを一気に飲み干した。そして立ち上がるとまた新しいビールを冷蔵庫から出してくる。それからは荻野の嫌いな教授の話なってそれに対して菅野が文句を言うという展開で続いた。
 ビール瓶が三本とワインが一本空いたところで二人は浅い眠りに就いた。

 重い扉に音を封鎖された荻野の部屋で新稲は椅子に座って、未だ眠りに就く優作の姿を見つめていた。その寝顔を見て柔らかく微笑む。しばらく微笑んでいると急に険しい顔になって、小声で独り言を始めた。
「わたしはあなたを失いたくありません。全てはきっとこれでよかったのです。ずっと、ずっと、永久にこのままを望みます。あなたがベッドに眠っているその姿に落ち着きます。緩やかな時間が、わたしの前を過ぎてゆく。きっと永遠にこのままなのでしょう。あなたもそれを望んでくれますよね?」
 新稲は立ち上がり、優作の寝顔のすぐ傍に顔を寄せる。ベッドの上に手を組み、その上に顔を乗せて微笑んだ。しばらくじっと勇作の顔を眺めている。互いの吐息が顔にかかるのを感じ、優作は一種の目覚めに出た。
 赤と黒の揺れる瞳が今も変わらない。
「お目覚めですか?」と、新稲は訊ねる。
「ご飯は食べられるかい?」
「ええ、私が用意いたします。何がよろしいですか?」
「何でもいいよ」
「わかりました。では、お任せさせていただきます」
 新稲はそう答えると、立ち上がり部屋を出た。
 居間の明かりは付いたままだった。荻野はテーブルの上に頭を置いて眠り、菅野はソファーの上で仰向けに眠っていた。
 冷蔵庫を開けるといろいろあったが、新稲にはどうすることもできなかった。生活の中で新稲は料理する方法を知らない。
 諦めて戸棚を覗くとバターロールが入っていた。新稲はそれを持って、コップに水を汲んで、そそくさと優作のいるところに戻っていった。
 部屋の扉を開けると優作は光のない外を見て、じっと立ち尽くしていた。
「どうかしましたか?」と、新稲は訊ねた。
「とても変わっているね。あの暗闇の向こうには何があるんだろう?想像すれば、いろいろなものが浮かぶ。僕はこの窓の向こうに行けるかな?」
「あなたはわたしと一緒にいる事が嫌になったのですか?」
 新稲は愕然とした感じを受けそう訊ねた。優作は赤と黒の瞳で新稲の方を振り向いた。そして首を大きく横に振り否定してから言った。
「それは違うよ。ただ、ここにいてもつまらない。この先にはもっと大きな夢がある。だから僕はそこに行きたいと思っただけだ。君も望むなら、一緒に来ればいいさ。僕はそのほうが楽しいような気がする」
 再び優作は窓の外を見る。ガラス窓を開き、そこに身を乗り出した。新稲は持っていたものを机の上に置き、慌てて優作の背中に抱きついた。
「あなたはどこにも行けません。だから、わたしが、あなたの望むままにお世話します。だから、この先には行かないでください」
 夢の中の若者は自由の翼を持っている。それでもうまくいかない夢もある。君の自信がどこにあるのか、それが足りなければ君はどこにも旅立てない。
「この先の方が、楽しいよ。君もそれを望んでいるはずだ」
 その言葉に新稲は触れた。その答えがとても正しいもののように思えてきた。新稲の心は一気に揺らいだ。
「わかりました。それならば、行きましょう。この先にある世界へ」
 二人は窓から飛び降りる。ちょっと高くなっているが、下が柔らかい土だったので、泥に汚れながらも怪我することなく地表に降りられた。
「まだこの暗闇を越えないと」と、優作は言った。
 そしてまるで行き先が見えているようにどこかの方向へ歩き出した。新稲はロッジの外灯を頼りに優作の腕に手を添える。優作は手を伸ばし新稲の手を握り締めた。
「どこへ行かれるのですか?」と、新稲は訊ねた。
 優作はしばらくの間を置いてからこう言った。
「僕の誘われる方向さ。さあ、行こう」
 優作は強く新稲の手を握り締めると足早に木々を避け進み出した。この先にある場所が優作には見えているかのようだった。

夢幻の灯火 8.鼠

  • 2008/09/27(土) 19:09:56

8. 鼠

 どぶ臭い匂いを鼻から吸い込むのが嫌になり、口で呼吸をし始めた。辺りで揺れる風景にキーンという雑音がして、菅野の頭を痛めつける。服下の素肌に油の塊みたいな冷や汗がジトジトと流れ落ちてゆく。太陽の光は狭いビルとビルの間からちょうど顔を出し、ギンギンに輝いていた。目を開けようとすれば目が痛く、体を動かそうとすれば体が痛い。菅野の体はきしんでいた。長い年月、体を全く動かさずにいた老人のようにその体は酷く弱まっていた。衰弱に抵抗し手足を張る。体の復活を待ち望む。
周辺は置き去りにされた粗大ゴミが囲んでいる。どれだけ辺りを見回しても助けてくれそうな人はいない。人目の届かないその空間で菅野は自分の体をめいっぱい動かし、独り虚しくあがいていた。
 きっと体は立ち上がる。そう思った瞬間、自分に縮みこまないことを強みに菅野は強引に立ち上がる。ずしりとしたいつもの数倍の重力を体中に感じながらも、菅野の足はしっかりと大地を踏みしめていた。
幻想と覚醒の入り混じった辺りを見回す。自分の居場所はほぼ確定できる。
菅野は自分がまだ東京を離れていないことを知り安心する。そしてフラフラな体のままビルの合間より昼間のオフィス街に顔を覗かせる。辺りを急ぐサラリーマンやОLが冷たい目で菅野の横を通り過ぎてゆく。
菅野の脳はまだ正常な機能に達していないが、それでも足は意識なくともどこかを求めて勝手な方向に歩き出していた。自分がここにいる理由がどこかにあるような気がしていて、その思いだけが菅野の足をつき動かしていた。
幻想のどぶねずみがあちらこちらで顔をちらつかす。
「うっとおしいな。一人にしてくれ」
 菅野は誰にも聞こえないような小さな声でそう呟いた。
 どぶねずみの群れはそれでもチューチュー言いながら、菅野の足元をちょこまか過ぎてゆく。体の内外両面から出てくる熱い熱に汗を滴り落とし、ゾンビのような体勢で歩いている。
 太陽の熱を避け、高層ビルの側の小さな広場に向かう。誰もいない石の腰掛に腰を下ろし、大きく深呼吸をした。雑踏の中でも静かな夏の音が聞こえてくる。人工的に作られた水の音でも菅野の心身の疲れは和らいだ。
 結局これからどうすればいいかはわからないままだ。無数に増えたどぶねずみの幻想にその答えでも聞きたいくらいだ。そして菅野は微笑んだ。ふと自分が生きている実感が湧き上がってきた。死ぬことはなかったのだろうが、大きな危機を回避したさわやかな心持が菅野の体を優しく包んでいた。高層ビルの合間をそよぐ風が気持ちよく吹かれていて、再び菅野は微笑んだ。

 また新しい朝の光を受ける。ずっとはるか遠くの台地を顧みる。失われた時間が酷く苛立たしい。一人の時間を長々と過ごす先に何もないことを知っている。朝焼けのおぼろげな光に影を作り、優作の一日は動き出していた。
 色褪せた世界の住人は優作を普通に迎え入れてくれる。優作の姿形がこの世界の住人と変わらなかったことが、その理由の一つだろう。
 朝食は納豆だ。よくある日本の一日の始まり、とはいっても、もう時計の針は一〇時を過ぎている。一日の始まりと終わりがどこにあるのかわからない。正しいリズムに戻るにはまだ程遠い。
 朝食を済まして、歯を磨けば、彼らはテーブルを囲み、異世界人の優作を待っている。優作は素直に一つ空いた席に腰掛ける。
「何か、身構えないでくださいよ」
 優作はみんなの視線を感じ、そう呟いた。
「ごめんなさい。そんなつもりはありません。ただ…、まあいいです。できたら、あなたから話してください」
 新稲のその言葉に優作はうなずく。
「僕はこの世界から、帰る方法だけを、一年前に考えていた。ここから行けるいろいろな場所に行って、いろいろなものに祈りを込めた。だけど、結局戻ることはできなかった。でもある日、あの神社に行ってみた。おじさんの姪のかずよちゃんが、このお堂の奥で、毎夜祈りを込めると願いが叶うって聞いたから」
「かずよちゃんがそんな事を」と、荻野がぼやく。
「それで、ある日祈りを籠めていると、ずっと遠くに通じる扉があるのを感じたんだ。きっと元の世界に戻れる扉だと思った。外からは強い風が吹いていて、その先に行くのが怖かった。だから僕はその日は行かなかった」
「どうして?」と、陽子さんが訊ねる。
「もしこれが元の世界に戻れる扉だとしても、僕はまだ戻るのが早いと思ったんだ。この世界に来たのはそれなりの理由があるはずだと思うから、その理由にしっかりとした意味がほしかった。たとえば、おじさんと陽子さんが結婚したように」
 荻野と陽子さんは顔を見合す。
「僕は、僕なりの理由がほしかった。たとえば、その理由がこの世界に大きな影響を及ぼす何かでありたかった。でも、しばらく時が過ぎてもその理由は何もなかった。だから結局、僕は日が過ぎたある日、あの扉を開くことを決意したんだ。もう、ここにいてもしょうがないと思って」
 優作はそこでいったん話を止めた。それについて、そこにいた誰もがあせらず次の言葉を待った。優作はゆっくり口を開いた。
「でも、扉の先は、この世界だった。色褪せた感じに変わりはなかった。僕は森の中にいた。それで、一つの宝箱を見つけた。その中には、僕の思い出が詰まってた。僕はただ、それを守ろうとしていた。もう、他に、考えることなんて、何もなかった」
「でもあなたは私と会いました」新稲は言う。「あなたはとても寒い冬の日に東京にいました」
「そう、僕は夢を見ているのかと思った。時々思い出せば、町を歩き、時々、車で連れられて、時々、電車にも乗っていた」
「優作君、お金もないのに、どうやって暮らしていたの?」
 自然な疑問が陽子さんの口から飛び出す。部屋にはカーテンが布かれ、薄光が薄いカーテンを輝かしていた。冷房が大きな音で唸りだした。優作は考えていた。過去の夢を思い出すのは難しい。思い出せない夢は永久に闇の中に葬られる。
 それでも思い出すなら、「僕は、君と、もう一人の男を知っている。誰だか、よくわからない。ただ、僕は、影からずっとその男に操られて、生きていた。その男が誰だかはわからないんだ。ただ、そんな男がいたような気がしただけ、本当はいなかったのかもしれない。よくわからない」
 沈黙に固まった優作に言葉はない。この静けさをどう揺るがす?
「あの、すいません。私をその神社に案内させてもらえないでしょうか?」
 新稲は思い切ってそう言ってみた。
「ああ、いいけど、何もわからないよ」
 優作は否定的な言葉で返す。
「かずよちゃん、何でそんな話したんだろう」
 またふと陽子さんが疑問を投げかける。
「わかりません。ちょっと訊いただけなんで。とにかく、行ってみましょうか。もう一度、あの神社に」
 そんな時、突然電話が鳴り出した。
「かずよちゃんだったりして」
 陽子さんはそう言って、電話に向かう。そして受話器を取って、「もしもし」と言う。
「あれ、誰?聞いたことある声だな」
 電話の向こうの男はそんな事を言っている。
「どちらさまでしょうか?」
「俺だよ、俺、菅野」
「菅野さん?今、どこで何しているの?」
「ところで、あんた誰だよ」
「ええ?わたしです。陽子です」
「陽子さん?これ、荻野さんちなの?」
「ええ、そうよ、どうかした?」
「いや、まあいいや。今、東京なんだけど、どうしようか?」
「そうだ、菅野さん。申し訳ないんだけど、かずよちゃんって子がいるの。その子をこっちまで連れてきてくれる?」
「んん、ああ、いいけど、その子、どこにいるの?」

 気が付くと、そんな話になっていた。狭い公衆電話の中で、少し落ち着いた菅野はズボンのポケットに入っていた小さな紙切れを右手に電話をしていた。
 状態は悪くない。むしむしした暑さと体にひんやりまとわりつく服を別とすれば、菅野の体はすでにかなりの部分まで快方に向かっていた。
「ああ、わかったよ、じゃあな」
 陽子さんに対して、めちゃめちゃタメ語になっている菅野はそこで電話を切った。
電話ボックスから出て歩道を歩く中で、強い風が吹いてくる。心地よさでまぎれ、菅野はにっこりと微笑んだ。
サングラスはどこにいったんだろうなんて事を思いながら、菅野は人混みをかき分け、早足に進んでゆく。
幻想は消えない。なぜか一日中ねずみな日で、今もねずみが駆け回る。何のイメージがねずみを見せているのかわからない。不思議な感触を感じてはいるが、別にどうって事はない。二日酔いが治った夕方のように、菅野は現実の心地よさを感じている。周りをゆく人がどんな目で見ようと、菅野はお構いなしに笑顔で歩く。
左の前ポケットに握りつぶされた万札の束が入っている。お金に困ることはない。すると昨日の男の事を思う。名も無き男にすべてを操られているのだろうか。しかしそれについて考えてもどうにもならない。
ある駅から電車に乗る。地下鉄を乗り継ぎ、自分のホーム駅に帰る。昨日はこの駅からどうやって、あんなところにやっつけられたのか、その全てを知る由もなく、ならば菅野は昨夜のバーに向かう。
昼間の路地は恐ろしく静まり返り、自然と深い深呼吸をして、菅野は恐れを紛らわそうとする。そしてバーへの階段を下りてゆく。
営業中ではないが扉は開いていた。菅野はお構いなしに暗闇のバーへと含まれていった。
闇雲のねずみは変わらない。菅野は辺りを見回し、人を探す。冷たい空気が鼻につく。カタコト音を立てて、奥へと歩いてゆく。カウンターの向こうを覗き見る。
たくさんの酒瓶が転がり落ちている。菅野はそれを避けながら、カウンターの奥へと入ってゆく。黒い扉を開けると薄暗い明かりがついていた。そして安いソファーに燃え尽きた男が座っていた。菅野の知らない男だ。
「あんた誰だ?」と先に口走ったのは、菅野のほうだ。
 燃え尽きたボクサーのような男は顔を上げた。どうやら酔っ払ったウエイターらしい。
「あんたが、菅野さん?」と、ウエイターは言った。
「ああ、そうだよ」
「伝言があるよ。言っとく」
ウエイターは机の上に置いてあった、小さなメモ用紙を手にする。そして酔っ払った赤い目でそれを読み出す。
「『昨日はすまなかった。けど、あんたの悪いようにはしない。ちゃんとお返しするから、今は俺を探すな』だって」
 菅野は目を瞑って、念仏を唱えるようにうなずいてから、ウエイターに訊ねる。
「あんたはあの男を知ってんのか?」
「ああ、よく知んねえけど。この店に関わってる人らしいよ。時々来るけどさ、何か危なっかしい人だから、あんまし付き合わないようにはしてんだよね。俺はただのバイトだからな」
「ああっそうか、そいつはすまないね。ご苦労さんだよ」
 菅野はそう言うと、すぐにその場を離れた。
 バーを出て、自分ちに向かう。考えるのは面倒だった。この全てが終われば、自分がどうなるのかわからない。菅野は考えなかった。逆らう気もなかった。ただいずれはこのままではすまないとは感じていた。苛立たしいけど今は進むべき道がある。それが例え、名無しの男の頭の中にある計画の一端だとしても構わない。気持ちの方向性に従うまでだった。
 家に着くと、周二と見知らぬ女が家の前でしゃがみこんでいた。
 周二は菅野の顔を見るなり言った。
「菅野さん、大丈夫でしたか。俺もわけわかんなくなっちゃって、まあ、彼女に助けられたんですけどね」
「ああ、で、ねずみ、どうすんの?」
「ねずみって何?」
「いや、いいから」
「あの、菅野さん、どうするんですか?」
「俺は山に戻るよ」
「でしたら、よかったら、家貸してもらえませんか?」
「ああ、くれるよ。もういらねえ」
 そして女が言う。
「よかったねえ、周ちゃん、住む場所見つかって」
「ああ、でもな、八重子、これから、しっかり二人でやっていかないとな」
「うん」
「おまえら二人で暮らすんか?」
「ええ、こいつ、昨日、山梨のほうから家出してきたらしくて、まあ、それが、酷い親らしくて
「ああ、そう、よかったね。その前にさ、俺の家のシャワー使わしてくれる?見てのとおりの汗まみれでさあ」
「ああ、俺もっすよ」
 そんなわけのわからない周二との会話で、とりあえず、お出かけの準備、菅野は時間が忙しく、どこかで切羽詰っていた。

 山間部では現在にわか雨中、でも霧雨みたいなものでお気になさらずに外を歩く。
 神社は崩れた崖の上にある。小さなお宮が建っていて、優作はあまり深いことを考えずにそのお宮の扉を開ける。すると下へと通じる洞穴のようなものが見当たる。しゃがまずとも一人分は歩いて通れるくらいの階段がずっと暗闇の中を続いている。
 優作が懐中電灯をカシャリとつける。
「足元、気をつけてください」
 懐中電灯を照らしつけても、光は冴えない。霧に覆われた感じがB級ホラー映画を思わせる。女性の悲鳴でも聞こえてきそうだ。
 優作は先頭に立って、下へと通じる急な階段を下りてゆく。新稲が小さく口を噛み締め、冷静さを装いながら優作に続く。その後を恐る恐る陽子さんが、本当は一番怖がっている荻野が最後につく。
 一段一段ゆっくりと下りてゆくと、少しずつ足音がこだましだす。その静寂とした空気を誰も語ろうとはしない。
 明かりが止まる。光は壁を照らしている。
「階段が終わります」
 もわもわ響き渡る優作の声が異様な雰囲気を作り出している。
「ここからどうするの?」
「先がありませんが」
 ぐわんぐわんの声を響かせながら、みんなが喋りだす。優作はその声の響きが嫌になったのか、何も言わずに壁に手を添える。当てられたライトの手がゆっくり木の壁を押している。
「この先があったんだ」
 壁に覆われた狭い部屋の向こうから洞窟が姿を現し、冷たい風が異様な音を立て吹きつけてくる。優作はその先に足を踏み出す。
「どこへ行くんだろう」
 しかし実際その先はただ掘っただけのようなガラクタ石の転がる道だ。転がる石をガラガラ蹴りながら、長い長い空洞を越えてゆく。そして再び明かりは壁にぶつかる。
「もともとが何の通路だったかはわからない。だけど僕は、あの日、この道を抜けた」
 優作のその言葉はあまり響かなかった。それはつまり、ここがどこかに抜けていることを示唆している。
 頭の上、優作は重い石の扉を持ち上げる。強い光が今まで見つからなかった四人の顔を照らす。眩しさに目をぱちくりさせながら、外を仰ぎ見る。
 そして四人はその外の空間に出た。
 辺りは薄い霧が差し込んでいる森の中だ。深い樹木に覆われ、いったいどこなのかわからない。
「これだけだよ。別に何もない」
 そう言う優作に、新稲はうなずいた。
「これだけ?これだけなのに、どうして?」
 そう小さく呟いた。

 感づかないのかい?僕は揺れている。時として、同じ行動を取ったことに、僕は未来へと進むべきなのか?僕はどこへ行く?

「そして、あなたはここでどうしたのですか?」
 新稲が優作にそう訊ねたとき、優作は急変して酷くうなだれていた。何かとてつもない気持ち悪さを感じているみたいに優作の顔は歪んでいる。
「どうかしたの?」と、陽子さんが訊ねる。
 遠い空の下、時間と空間がひしめき合っている。列車の連結が行われる。今度は深い谷の底へ落ちてゆくイメージだ。今、優作は果てしない夢の宝箱に含まれてゆく。

 ここに僕を沈める。あらゆる扉が開く。あの日の恋人が顔を覗かせる。歌を歌っている。家族のことを思い出す。静かな家の庭を思い出す。闇夜が綺麗だった。感じたこともない平和がそこに広がっていた。初めて見た海の磯の香りが忘れられない。思い出は生き生きとしている。色褪せることを知らない人々の目の輝きが未来にはあった。あらゆるものが詰め込まれてゆく。そして僕には何も残らない。

「大丈夫か?」と、荻野さんも訊ねた。
 しかしすでに優作の耳にその声は届いていなかった。

 光も闇も消え、そしたらそこには何が残るのだろう。思い出に揺れる。いつまでも。


 周二と八重子は今にも旅立とうとしている菅野に手を振っていた。
「菅野さん、達者で?」
 永遠のお別れのように、周二は悲しそうな顔をしていた。菅野はまた帰って来るって、なんて言いたかったけど、ただの苦笑いで手を振って車を駆り出した。
 お気に入りでない安いサングラスを掛け、世界は再び平穏を取り戻していた。ただ荷物の詰まった後部座席は今にも崩れ落ちそうにがたがた言っている。いつもの格好つけはなく、ギャグアニメのように額から汗をたらす。
 途中の給油を挟んで、ある大学のあるキャンパスに向かう。かずよという女の子を連れて来いと言う命令にも、突然何様のつもりで三〇近い男が面を出せばいいのか、菅野は不安に思いながらも車を走らせる。
 郊外のキャンパスで道をいくつか間違えているうちに時計は四時を回っていた。それでいてやっとのことで菅野は目的地に到着した。
 郊外だけに広いキャンパスで、車は一般市民を気にしないかのように勝手に出入りできた。菅野はそこからどうするか決めてないので、とりあえず文学部の棟に行ってみた。
 どうなるわけもないじゃん、てナ気分なので、とりあえず、電話ボックスより陽子さんに聞いたかずよの家に電話する。
 緊張した面持ちで受話器を回し、相手が出るのを待つ。
「はい、荻野です」
 留守番電話?
「どちらさまでしょうか?」
 いや、違う。本人だ。
「もしもし、菅野と言うものですけど」肩書きがないだけに怪しい、けど続ける。「荻野さんから聞いてるかな。君をあの山の別荘にご案内したいって件?」
「はぁー?」
 ほら、めっちゃ怪しがっている。
「訊いてないの?電話なかった?陽子さんから」
「陽子さん?あなた陽子さんの知り合いなんですか?」
 話ぐらいつけておいてくれよ、と菅野は思い酷く戸惑う。
「あのね、優作ってやつが帰ってきたから、あんたに会いたがっているんだって。だから、とにかく俺が連れ行くから」
「優作君?」
「いいから信じなさい」
「ちょっと待って、確認取る」
 カチャ、プープープープー。
 かずよの行動は素早い。
 夏の太陽はまだ高く輝いている。電話ボックスの外に出て、自分にもあった懐かしの時代を思い、ふけてみる。ちょっと気取った感じで電話ボックスに寄りかかる男を、チャリンコをこぐ二人の女学生が不信そうに眺めて過ぎてゆく。そして過ぎた女学生の笑い声、あんなに気になるものはない。
「俺か、俺が変か?」
 一人そう呟く菅野は般若のような顔をする。
 そろそろいいだろうと、かずよに電話をかけ直す。
「あ、さっきの人、菅野さん?」
「ああ、そうだよ。確認取れた?」
「うん、でも、何か大変なことになってるんだって。だから急いで」
「わかったよ。で、あんたの家はどこなの?」
「ねえ、今どこにいるの?」
「学校だよ。学校、君の」
「何だ、じゃあ、すぐ行く。正門で待っててね」
 チャリン。
 かずよの行動は異様に素早い。勝手なペースで進んでゆく。菅野はあっけに取られながらも、言われたままに正門のすぐ側まで車を移動する。
 車の中で雲の流れを見つめながら待つこと二〇分少々、辺りを見回しながら、自転車をこぐ女が登場する。彼女はしばらく辺りを見回してから、菅野の車の窓をノックする。菅野は手動の窓を開ける。
「あなたが菅野さん?」
「ああ、そうだよ」
 菅野はぶっきっらぼうにそう答える。
「じゃあ、ちょっと待ってて、自転車置いてくるから」
 かずよがふらふらと自転車を置いてくる間、菅野はそっと目を閉じていた。眠りの不安定さに疲れが残っている。少しこめかみが痛んでいるのを感じる。
「お待たせ!」
 かずよがそう言って、助手席のドアを開ける。後の荷物を見て一言。
「あなたここに住んでるの?」
 菅野は痛い頭を抑えながら言い返す。
「ああ、いろいろあって、今日からそうなるかな」
「へえ、本当なんだ」
 助手席に乗り込んだかずよを確認し、菅野は目を覚ます。もう一踏ん張りで、どこかに達成する。菅野は力を振り絞り、重い車を動かし始めた。
 道なりを行く中、菅野はまず自分の知る限りのここまでのいきさつをかずよに説明した。つまりそれはあの湖のところに迷い込んだことから始まり、新稲の事、周二の事、優作が現れたときの事、新稲と優作の知る限りの関係、後は自分が東京に来た事についてなどだ。
 それを聞いたかずよは、今度は自分の事を話し始める。
「去年の夏、おじさんの家に泊まりに行ったの。それまでに何度か行った事はあったけど、夏休み中っていうのは初めて」
 かずよも話が入り乱れ、内容が長くなるタイプなので、話を端折る。つまり、菅野は『レストランカラハリ』で出会った香澄に似たタイプだなと、かずよを評した。
 湖に突然溺れていた優作をかずよとかずよの犬が救い、そこから物事がスタートした。優作の動きには不審な点が多く、たくさんの秘密があった。優作は陽子さんと親しくしだしてちょっとむかついた。まあ日々を過ごして、かずよがそろそろ自分の家に帰ろうかと思ったころ、突然優作は姿を消した。陽子さんに問いただすと、最後には彼が別の世界から来た人間で、きっと自分の家に帰ったということを教えてくれた。
 そんな話だった。
「コンビニにでも寄ろうか?」
 菅野は山道に入る前にそう言った。
 すでに時計は六時を回っていた。辺りは明るさを失うことなく、青空を煌かしているが、一日の終わりという静けさは感じられる。
 田舎町の駐車場の広いコンビニに車を止める。田んぼに囲まれたコンビニで、遠くの山際に太陽が沈もうとしている。一人の少女は車の助手席を降りて、長い影を作っている。その姿はなかなかの美しい絵になっていた。
「なあに?」と、かずよは若々しい声で言った。
「いいや、別に」と、菅野は年老いた声でふてくされてみた。
 感じ取れる全てを心に含む。やがてかずよの買ってきた百パーセントオレンジジュースを一気に飲み込む。菅野は少しだけ自分を取り戻す。
 再び走り出した車の中で、かずよは山のロッジの現状を説明した。
「優作君が、今、また駄目らしいって、陽子さん言ってたよ。どうなるかわからないって」
「そういう大事なことは最初に言いなさい」
「大丈夫かな?」
「大丈夫、いよいよ俺の出番って感じ?」
「何それ?」
 菅野は暗くなってきた辺りに諦め、サングラスを外す。今は何の幻想もない。ねずみもどこかに退避したらしい。そういう時間もたまには存在する。
「結構かわいい目してるのね」と、かずよがおちゃめに言う。
「これがどういう意味か、俺はなんとなく理解できてねえ」
 軽自動車は山道へと差し掛かる。強い日差しを西に受け、木々がそれを覆い隠せば、また新しい世界がその先に待ち受けている。ずっと空は青がよかった。この先に見合う美しさを待ち望んでいる。

夢幻の灯火 7.鉄の棒

  • 2008/09/21(日) 22:00:40

7. 鉄の棒

 あのエンスト坂に置き捨てられた菅野の軽自動車は上り坂に頭を向けてピョコンと主人の帰りを待っていた。菅野は荻野さんの四駆から降りると、その自分の車に近づいていった。三日程ほっぽり置かれたその車の白い車体はいろいろな汚れをつけていたが、壊れている様子はどこにもない。周二の持っていたガソリンをそいつに与え、キーを回しエンジンを噴きかけると、その軽自動車は見事な復活を成し遂げた。
軽自動車を無事に走り出す。荻野家の四駆は周二の運転によって戻されている。
あれだけ手間のかかった道のりは車ではあっという間、再びログハウスの手前まで来れば、周二が四駆を乗り捨て、軽自動車一台がこの先の世界へ旅立つこととなる。
その間ほとんど無言だった二人が久々に会話を交わす。
「で、これからどうするんですか?」と、周二がずっと抱いていた疑問を口にする。
「さあな」なんて菅野の冷たい対応。
 あれあれあれれえ、変だぞこれ。なあんて感じて、周二の顔は崩れてゆく。ちょっとした雄鶏みたいに顔を縦に振る。
「あんたさっき、予定があると言っとったちゃいんますかい」てナつっこみが耐え切れずに口から飛び出す。
 運転しながら菅野は平然とした顔で言い返す。
「本当はあてなんて何もないさ。陽子さんに後の方で言ったのが本当。『このままじゃ俺らしくない』ってやつ?ちょっち思っちゃってね」
「戻りましょう、菅野さん。まだ間に合いますって。行くあてないんでしょ?」
 菅野の行く手を阻み、周二の手がハンドルを力強く切ろうとする。
 舗装された林道で車はゆらゆらゆらゆらキュルキュルキュルキュル言いながら走ってゆく。そしてお互いに真剣な眼差しになる。
「危ないって、おまえ、俺を殺す気か」
「戻りましょ」
「危ないって」
「戻りましょうって」
 危険なやり取りで車は脇の木々にぶつかりそうでぶつからず、そんな感じで一分くらいゆらゆら揺れた運転が続く。
「大丈夫。ちゃんと行くところあるから、それに俺が金持ちなこと知ってるでしょ」
 その言葉で、周二は菅野の握るハンドルから手を離す。
「ふう、しょうがないな。じゃあ、信じますよ。ところでどこに向かっているんですか?」
 山をとりあえず下ってはいる。急な坂で車を左へ右へ曲げながら、道を下へ下へと進んでゆく。
「昨日ちょっと陽子さんと話してたら、こっちが東京だって言われてねえ」
「つまり、東京へ向かっているんだ」
「まあ、そういうこと。東京に行けば、きっと誰かに出会う。これは俺の勘だけどね」
 そんな事で軽自動車は下へ下へ下ってゆく。

 そのころ一方、ログハウスの居間では新稲と陽子さんと優作が三者面談を始めていた。
「私はこの数年間、人間の流れに対する正しい方向性を導く業務に携わってきました。私が行うことはただのお手伝いのようなもので、人間の正しい方向性をどこに指し示すかといった難しい考えまでに至って導くような、いわばカウンセラーのようなことは一切しておりませんでしたが。実際私は上から与えられた業務を問題となる人間に行うだけで、言われるがままにやってきた奴隷のような存在にしかすぎません。しかし今回の業務においてはどうやら違うようで、私は自分の意思を持って、考え、進んでゆかなくてはならないようです。ですから私はあなたたちの意見を取り入れ、これからどうしようかといった真意ある問題に対し、答えを出してゆかねばならないわけです」
 そんな長々とした新稲の説明で始まる。
「佐知子ちゃん。あなたが、どんな人間なのかはよくわからない。だけどね、わたしはあなたに、最初に会ったときから何か運命的なものを感じていたの。あなたに会えたことが嬉しかったの」
 陽子さんはテーブルを挟んで、新稲と近い目線で向き合いながら話をする。
「あなたにはこれからの話が理解できると思う。いい。わたしと優作君はこの世界の人間じゃないの」いきなり思い切った内容。「覚えているかわからないけど、そんな話をしたでしょ。冗談のつもりに聞こえただろうけど、あれは本当なの。わたしと優作君はあの湖を通して別の世界からやってきたの」
 新稲はきょとんとしていた。どんな話も理解できるつもりだったが、その話はあまりに嘘くさかった。
「いいよ。バカらしい話なんだ。最初から聞かないほうがよかったんだよ」
 優作は二人と少し距離を置いた位置で、そう言い放った。
「佐知子ちゃん、わかる?信じてくれる?」
 優しい陽子さんの声が新稲の耳に響く。
「わかりました。きっとそういうことなんです」と、新稲は言った。
「でも問題はわたしじゃないの。わたしは彼と結婚したから、もう帰るつもりはないの。それは向こうの世界に未練がないわけじゃないけど、どちらかを選ばなければならないと言うなら、やっぱりここに残るしか、ない」
 複雑な心境を確実に無にするには至らない。それでも陽子さんの心には強い決心があった。
「優作君、本当にあなたに戻る気があるのなら、佐知子ちゃんに話して。あなたも、だからここに来たんでしょ?」
難しい言葉は要らない。すねていたって、自分を囲んだって始まらない。その気持ちが深まれば優作はこのままではいられない。それでも自分に引っかかる部分をすべてクリアにできない優作は新稲の方を見ないままに自分の気持ちを話し出す。
「僕にとっては、むしろこの世界が何なのかわからない。この世界に住んでいる君のような人にとっては僕の言っていることがわけわからないだろうけど、僕にとってはこの世界の方がよっぽど理解できない。この世界は僕にとって夢のようなもので、現実は本来僕が生きていたもう一つの世界だけなんだよ」
 いったん間を置いて深呼吸する。
「僕はこの世界に来て、最初は本当の所おかしいのは自分じゃないかとも思った。僕だって常識のわかる人間のつもりだ。だからただ気を失っていて、少し記憶を無くして、同じ世界の違う場所にいるだけだとも思った。色褪せたこの世界は僕の脳の機能が少し壊れただけで、ずっと気のせいだとも思った。でもやっぱりどんなに理解しようとしても、僕の存在はこの世界に無いんだ。僕の過去の記憶は別の世界の事で、僕の家族や僕の友人の事、全ての事がもう一つの世界で僕にあった出来事だとしか思えない。陽子さんと話ができてそれは本当だと思うようになったんだ」
 心理面が少しずつ表出てくる。伝えたい言葉は心理面ばかりを際立てる。結論がどうしたいのか、優作の話からは出てこない。
だから新稲は訊ねた。
「あなたが別の世界から来たことは信じます。ですから、できたら、この世界にどうやって来て、どうやって今日までを過ごしてきたかを話してもらえませんか?」
 優作はまだだいぶ混乱している。バラバラだったいろいろな記憶を昨日今日でまとめた男の脳みそはまだ正常に動作していない。またどこかに幽体離脱でもしてしまいそうな自分を感じて優作は現実を探す。それを感じた陽子さんがいったん話を繕おうとする。
「まずはわたしから話すね。優作君の事も交えて話すなら、わたしは今から二年前、優作君は一年前ね、あの青く光る湖で溺れていたの。わたしは光太郎(荻野の事)さんに助けられて、優作君は光太郎さんの姪のかずよちゃんとかずよちゃんの飼っている犬に助けられたの。何で溺れてたかと言うとね、これはわたしだけの話なんだけど、わたしは向こうの世界で付き合っている彼がいたの。その彼とある湖で泳いでいたら急に体が重くなって鉄の塊みたいになって、湖の底に体が沈みだしたの。泡がぶくぶくと水面に浮いてゆくのを目に見ながらわたしは意識を失ったの。それで気づいたときには光太郎さんがわたしの傍にいたの。わたしはそのとき何がなんだかわからなかった。ただ助かったんだと思った」
 当時起きた事に対する複雑な思いが陽子さんの脳裏をよぎる。
「光太郎さんは見ていたの。わたしが誰もいなかったはずの湖から浮いてきたのを。わたしはここがどんな世界なのか理解するのに時間がかかったわ。優作君みたいに呑み込みが早くないから、その時は自分が何をしているのかもわからなかった。理解したときには不安で、でもなるべく考えないようにしたの。考えてどうなるものでもないから。ただ光太郎さんに全部助けてもらった。今もそうね。理解できないたくさんの事があるけど、光太郎さんが全て助けてくれるの」
 ちょっと切ない感じのいい話みたいで、複雑でも嬉しい部分をたくさん含んでいる。新稲は荻野の優しさを感じ、うっすら笑みを浮かべた。
「大体同じだよ。そんな感じで僕もこの世界にいた。ただ僕は荻野さんみたいに助けてくれる人がいなかった。かずよちゃんはまだ高校生だったから、僕にそんな力になることはできなかった。僕はこの家ではそんな居心地のよさはなかったんだ。だから僕はいつも僕の住むべき場所に帰りたかったんだ」
 優作は少し苛立っていた。自分の中でいろいろな整理をしたつもりなのに、問題はまだ解決していない。本当に解決できるかわからない不安、見えない力が自分の姿を覆い隠してしまっているような強い恐れを、記憶から思い出して苦しんでいた。
「なぜ、あなたがわたしの前に現れたのか、ゆっくりとでいいです。思い出していきましょう」
 新稲はカウンセラーのように優作にそう訊ねた。
 自分を見失いそうな優作は明らかに苛立っていた。記憶を失っていた頃の自分を捨て、本来の自分を固持したい優作の胸の内で、それと反する思い出を思い返さなければいけない状況に優作の脳は強い反発心を立ち上げている。
「まだ、何も話せない。今はまだ、何も、もう一度考え直したい。ちょっと休ませてほしい」
 優作はすっと席を立ち上がり、玄関の外へと出ていこうとした。新稲が心配して立ち上がると、優作はそれを制した。
「少し一人にしてくれ。必ず帰ってくるから」
 玄関の扉は閉められ、そこは陽子さんと新稲の世界に変わった。残ったのはそっと二人を包み込む暖かい夏の光だけだった。

 今日の青空を暖かい空気の下に置く。そよぐ風が天を舞う。こんな一人の時間を迷える子羊、湖での緩やかな波の音に誘われて、行く末もなくそこに落ち着く。
 考えるのは面倒だった。本当はこんなはずじゃなかった。求めていたのはもっと穏やかな日々だった。それが望めず彷徨い人、それでも結局死に至ることはなかった。
「僕の中はまず、僕が旅するよ」
 優作は揺れる陽炎の下で唇をそう動かした。
 ずっと遠くの空が宇宙だなと思ったところで何があるわけでもない。わかっていても何かを求める。宇宙の果てまで行って、その果てが何なのかを確認する。人はそんなバカな生き物で、意味のない毎日を生きることに固執するつもりもない。豊かである事の象徴に優作の命があり、それを理解しても自分の行くべき場所を求めてしまう。
 太陽の光が湖に反射している。いつもならそこに意外な何かがあるのではないかと求めてしまう優作も、今は冷静になっている。湖の畔に寝転がって、大地の匂いを嗅ぐ。小さな丸まった小石がしょっぱい匂いを出している。所々に生えている雑草の生きる姿に自分を重ね合わせる。涙っぽい自分の目が潤む。
 でもここにあったのは久しぶりの現実の空気、自分が空気や土に触れている感触が確かに伝わってくる。
 静かな一日をここに望む。

 ログハウスの中では新稲が浮かない顔をしていた。
「わたし、少し言い過ぎてしまったでしょうか?」
 陽子さんは冷たい麦茶をコップに注ぎながら優しく言う。
「そんなことないわ。ただちょっと時間が必要になっただけよ。こうやって少しずつ考えていけばきっと答えは出るものよ」
 深刻なおもむきで新稲は口を開く。
「私、今までこのようなことをしたことはありませんでした。人を助けるとか、人に助けられるとか、そういった関係もなく、ただ生きてゆくということだけしかなかった気がします」
 陽子さんは麦茶をおぼんの上に乗せ、それをテーブルの方に運びながら言う。
「人にはそれぞれいろいろな悩みがあるものね。あなたにはあなたの悩みがあり、彼には彼の悩みがある。わたしにだってわたしの悩みがあるし、それはそれぞれ誰かが助けてくれるのよ。佐知子ちゃんは少し一人で生きすぎちゃったのかな?」
 おぼんの上のコップをおろす。久しぶりによく喋って、喉の渇いた新稲がすぐにそれを一口いただく。
「薄かったかしら」
「いえ、大丈夫です」
 陽子さんはまた新稲の正面に座る。
「人にはいつかきっかけがあるものね」陽子さんはそう話し始める。「あの時ああしとけばよかったと思うことがたくさんあるけど、わたしはいつもこれでよかったと思うようにしているの。彼がいるからそんなこと言えるのかもしれないけど、それでも過去のこと考えたってどうなるものでもないでしょ。前の彼が今もわたしのことを待っているかもしれない。だけどだからって、わたしはこの二年間を光太郎さんと過ごしてきたの。その二年間がなかったことにする事なんてできないのよ」
 新稲はその話をどことなく流して聞いていた。それをすぐに感じ取った陽子さんは新稲に訊ねた。
「佐知子ちゃん。あなたはどうなの?」
「どうなのって?」
「あなたのそういった恋愛の話」
「私は、別に、何もありません」
「恥かしがらなくてもいいでしょ?」
「そうではありません。ただ話すようなことがないだけです。私は男の人のことを基本的にあまり好きではありません。だからそのような話はありません」
 恋愛を世の中の関係で重視していた陽子さんにとって、その答えは少し戸惑う回答だった。
「そうか。じゃあ、男の人と関係したことないんだ」
「なぜ、そんな話をするのですか?」
「んんん。ちょっと興味があっただけよ」
 新稲はいろいろな事にためらっていた。問題は一つでなく、多方向に存在し、その問題の一つに自分自身の存在もあるような気がした。
「テレビでも見ようか」
 うつむいた新稲の苦しみを感じた陽子さんが話を逸らした。テレビが付くと、空間を支配しだした重たい空気は瞬時にパッと消えてしまった。

 湖の畔に寝転がっていった優作に荻野が近づいたのは、太陽が西の空に眩しく輝く夕方四時過ぎのことだった。
 山から降りてきた荻野は優作に近づいてゆき、話し出しの言葉を使う。
「もう、だいぶ落ち着いたみたいだね」
 ずっと目を瞑り、瞑想をしているかのように自分の気持ちをまとめていた優作は突然の言葉にはっと目を開いた。寝たままの態勢で、眼鏡顔の荻野さんを見やり、我を取り戻そうとした。でも出てくる言葉がなかったのでとりあえず態勢を起こした。
 荻野は優作の横に腰を下ろし、湖を見つめ嬉しそうに微笑んでいた。
「毎年ここに来るけど、何度来てもいい場所だね。ここにいるとすがすがしい。冬になると早くここに来れないかって、いつも思うよ」
 荻野は特に当り障りのない話をしていた。西からの風が吹いてきて二人の耳元を掠めてゆく。
「うーん、気持ちいいねぇ」と、荻野は言った。
「おじさん(荻野の事で、荻野の姪のかずよが言っていたので優作に移った)。僕、帰ろうと思っているんですよ」
 普通を装う荻野の話し振りに落ち着かない優作は、自ずと自らの気持ちを語り始めていた。
「ここにいてもしょうがないという気持ちがいっぱいです。このままこうしていることも、これから帰ることも、どうなるのかわからない。この先どうなるのか、僕はわからない。それがとても怖いんです」
 荻野は頷きながらも否定した。
「それは、優作君だけに限ったことじゃないだろう?みんなどうしていいか、わからないんじゃないのかな。僕だってこの先どうするかわからない。いつまでもここだけの研究をやっているわけにもいかない。ここに結論が出れば、また何かを考えなくてはならない。だからといって、答えを出さずにずっとここにいれば研究者失格だよ。誰も僕のことを相手にしなくなる。陽子だってこれからどうなるかわからない。子供ができればまたいろいろな問題が出てくる。未来にはたくさんの不安がある。だけどそれを恐れてずっと何もしないわけにはいかない。みんなそんなもんだよ」
 その言葉を優作はじっくりと聞いていた。自分の未来を思って、それでも答えのない虫はここを彷徨い続けるのだろうか。優作は何かを感じたまま、それでも何を言うこともなくじっと心の内に湧いてくるものを感じ取っていた。
「どうだい?そろそろ帰るかい?」と、荻野は優作に訊ねた。
 優作はそれと関係なく質問した。
「かずよちゃんはどうしました?」
「ああ、大学に合格して今は立派な女子大生だよ。といっても昔と何も変わってないけどね」
「僕の事は?」
「ああ、あの後、君の事をほとんど話したよ。君を救ったのが彼女だから、大体のことは理解していた。ちょっと淋しそうだったかな?」
 荻野のその言葉に優作はちょっと複雑な顔をした。
「連絡は、しないほうがいいのかな?」と、荻野は訊ねた。
「いえ、してもいいです。こんなことは言いたくないけど、僕もいつまでここにいるのかわからないから、彼女にも会ってみたいですし」
 荻野さんは何も言わず、頷いた。そして立ち上がり、「さて、帰るか」と言った。優作も立ち上がり、汚れた服の砂を取り払った。
「ああ、それから、菅野とかいう人と、もう一人の男の人、どこかに出て行きましたよ」
「ああ、そうか」
優作の言葉に荻野は興味のなさそうな生半可な返事をした。

車の混雑した通りまで来て、東京といわれる場所はもう目の前まで来ている。安っぽいエンジン音をブルブル言わせながら、とろとろと菅野の車はわずかばかりか進んでいる。強烈な太陽が熱っぽい車内を暖める。窓の外の澱んだ空気が心地悪い。前のトラックの排気ガスが開いた窓から入ってくる。楽しいドライブも終わったようだ。
「いやあ、久しぶりだな、東京」
 田舎暮らしの長い周二が目を覚ます。楽しみはこれからだと言わんばかりの元気さで、辺りを見回す。
「おまえ、寝てたじゃねえか」
「目え覚めましたよ。心地よく、さっぱりと」
 黙って運転し続けた菅野は気に入らない気持ちを抑えて運転を続ける。このだらだら運転が果てしなく目的地に遠い。
 それでも休まず車を走らせること一時間ちょい、車はやっと菅野の家に到着した。
 狭い駐車場に車をつけ、後ろにある荷物を引き摺り出す。
「おら、おまえの荷物、自分で持っていけ」
 菅野は投げやりな気持ちで周二の荷物を投げる。そいつをうまく周二がキャッチする。バッグにくくりつけられた青い牛のぬいぐるみが苦しそうに揺れている。
「危ないでしょ。なあ、モウモウ」と言って、周二は牛の頭を軽く叩く。
 例の重い革の鞄を担いで、菅野はその近くの自分のアパートに向かう。
「ここが菅野さん家ですか」
 どこにでもありそうな本当に珍しくない普通のワンルームアパートだ。
部屋の中に入り、日光の届かない部屋に薄暗い明かりを灯す。部屋の中は少しだけ明るくなるがそれでも暗い。気分は一気にブルーになる。
「汚いっすね」
 周二のセリフは菅野にとっていちいち頭に来るが、運転し疲れた菅野はそれに反抗する気力もない。
「古いエロ本ですねえ」
 押入れを探り、周二は勝手なまねばかりしだす。
「おまえなあ、ちょっとは黙って座ってられねえのか。人の部屋入れば、お邪魔しますも言わないで、勝手に荒らしまくる。俺は疲れてんだ」
 菅野はそこまでされてやっと反抗し始める。でもそれだけでくたばってベッドにドシンと横になる。周二はおとなしく菅野の言葉に従い、黙ってエロ本を眺めだした。
 車で熟睡だった周二にとって、この暇な時間を過ごすのは耐えられなかった。いろいろなもやもやが溜まっていたが、そんなとき自分の内に入り込むような男じゃない。
「菅野さん、いつまでこうしてるんですか。腹減りましたし、どこか出かけましょうよ」
 菅野はベッドの上でもんぞり返って、目を開く。
「うあああああああああああ」と叫んで、「わかったよ。どこか行けばいいんだろう。飯か、中華か、和食か、何がいい。けどなあ、俺はおまえを東京観光に連れてきたわけじゃねえんだ。それだけは理解しろ」
 そう言って、菅野はベッドの上からズトンと降りる。
「いやあ、渋谷がいいなあ」
 周二の目的は予想通りかなり違うところにある。菅野はそれに触れない。
「その前に、シャワー浴びて着替える。毎日毎日同じ服、汗まみれで気持ち悪いって」
 実際のところは一日荻野さんの服を借りていた。陽子さんが綺麗に洗濯してくれていたので、菅野のカジュアルスーツはそんなに汚れていない。
「じゃあ、俺も」
 その周二の言葉に菅野は面倒そうな顔をするが、あきらめてシャワー室へ入る。
そしてあれやこれやで仕度が整い、きちっと決めたところで玄関の外へ出る。もうすぐ七時になるのにまだ明るい空が二人を迎えてくれている。
「歩いていくぞ」
 菅野はそう言って、てんてこ舞いの周二を置いて先へ行く。周二は慌てて、後を追ってゆく。

 夕闇に近づいてもサングラスをかける男と、辺りを見回しながら歩く田舎の不良少年は独特の雰囲気をもって、街行く人を寄せ付けない。誰もがちょっと距離を置きたくなるようなそんな感じで二人は歩いていた。
 駅に通じる細い路地を抜けてゆく。本当に狭い路地で帰宅を急ぐサラリーマンも多い。そんな人々が道の真ん中を歩く菅野を避け、足早に過ぎてゆく。
 男は道の真ん中に止まっていた。黒のTシャツに、黒のジーパン、ドレッドヘアーみたいな頭で、無精ひげを蓄え、小さな黄色いレンズの眼鏡をかけている男だ。
 男は明らかに不自然に菅野たちを待っていた。迫り来る距離を少しずつ縮めながら菅野はその男と鉢合わせる瞬間に備えていた。周二でさえ、その男の怪しげな感じに睨みをきかせていた。
 来る。
 菅野とその男は一八〇くらいある、お互いの体で数十センチの距離を保ち、立ち止まり、胸と胸をつき合わせた。
「菅野、なぜ新稲から離れた。それがおまえらしさか?」
男は突然そう言い放つ。菅野はそれに負けじと言い返す。
「あんたいったい何もんだ?」
 雑然とした雰囲気があたりに飛び散り、帰宅を急ぐ人々が二人の隅を足早に駆けて抜けてゆく。周二はどうしていいかわからず、少し距離を置いた場所にある電信柱に寄りかかる。
「修正を求めれば多種多様だ。でもそれじゃぁつまらない。だから直接会いに来た」
 男の態度は決まっている。菅野はそれに負けない度胸を身につけている。
「言ってることがわからないなあ」
「菅野、おまえは俺を知っているはずだ。なぜ知らないふりをする?」
「てめえなんか知んねえよ。アホ、ボケ、バアーカ」
 そう言って、菅野はお得意のおどけたふりをする。
 男は苦笑する。
「そろそろいろいろなことに飽き始めていたんでね、君のような相手を最後に選んだ。僕の作り出した社会の中で君が選んだ行動は実に見事だったよ」
「あのさあ、本当に言っている事がわからないんだよね。あんた誰なの?」
「そうだな、立ち話もなんだ。俺についてくるか?」
 黒ずくめの男は菅野の答えを聞かず、勝手に駅の方へと歩き出す。菅野は目で周二を呼び寄せ、その怪しい男の後を追う。
 駅前を通り過ぎて、男は少し寂れた夜の店が並ぶ商店街へ入ってゆく。数メートル後を菅野と周二はついてゆく。
 ネオンの立ち並ぶ商店街を少し歩いて、男はきな臭い地下へと続く階段に消えてゆく。菅野と周二は少し怪しさに疑いを感じながらも構わずその階段を下りてゆく。
明かりのない暗い階段を降りきると、そこには静かなバーが重い扉の奥に用意されていた。薄暗く店内は青いライトで照らされ、ムードを漂わせるジャズが静かに響いている。磨かれたカウンターの向こうで髭の生えたマスターがグラスを輝かせている。数人の気取った客が黒ずくめの男の方をチラッと見る。それを気にせず男はそんな店内を素通りし、奥にある黒い扉の奥へと入ってゆく。菅野と周二は男に続く。
扉の奥は個室になっていて、十人分くらいの大きなソファーが壁際にギッチリ詰められて、輝くガラスのテーブルが真ん中に一つ置かれている。
「いい店だろう?静かで落ち着きがある」
 男は二人が入るなり、そう言って大きなソファーの奥に腰をおろした。対極の位置に菅野と周二も腰をおろす。
「で、話は何だ?」と、さっそく菅野は聞き出そうとする。
「まあ、そうあせるな、まずは俺からのおごりだ」
 男がそう言うとタイミングよく個室の扉は開き、若いウエイターが大きめのグラスに入った、透き通った青色のカクテルを運んできた。
「ここの一番のカクテルだ。まあ、飲んでみてくれ」
 男はそう言って、タバコをくわえ、火をつける。
 不審に思いながら、菅野はそれでも一口そいつを啜ってみる。舌にわずかにしみるミントと喉をするりと抜けてゆく艶やかな甘みがたまらない。
「どうだ、うまいだろ?」
 ああそうだと言いたいところだが、菅野はその言葉を抑えて、別の言葉を口にする。
「だからどうした?だからなんだよ?そんなことはどうだっていいだろう?俺はあんたの話を聞こうとしたのよ」
 そう言いつつ、菅野はおいしいカクテルをまた一口啜る。黒い男はにっこりして話し出す。
「そうだな、菅野、俺もそう思う。話をしようか」
 黒い男は小さく咳き込んで、また話し出す。
「俺の名前はどうだっていい。名前なんて人を区別するものにしかすぎないからな。大切なのは俺がどんな人間なのかだ。そうだろう?菅野」
 黒い男は菅野に強い視線を送る。菅野は早く話を進めてほしいといった感じの表情で、その視線をそらす。黒い男は続ける。
「君たちはあの山を彷徨い、どうやら青の湖に辿り着いたらしい。そんな展開はあまり予想をしていなかった。ただそれはあまりに面白い展開だったよ。可能性は否定できない。俺があの辺りに君をおびき出したのは確かだし、可能性はあったよ」
「言っていることが、さっぱりなんじゃないの?」と言ったのはカクテルのお代わりをせがっている周二だ。
 その言葉に黒い男はタバコを一吹かし、ウエイターにお代わりを頼む。それから周二の言葉に回答する。
「話が下手ですまないな。まあ、わかりにくい話を遠まわしに語ろうとしすぎたか」
 黒い男は灰皿にまだ吸い始めのタバコをねじりつけた。
「簡単に言おう。菅野、君の取ってきた行動はすべて俺の頭の中にあった。そして、あんたや新稲を動かしているすべての根源はこの俺だ」
「ポロテクスタントエージェントの社長さんてとこかい?」
「はっはっっはははは」
黒男は大きな声でバカ笑いをした。
「何がおかしいねん」て、菅野はちょっと大阪弁つっこみになる。
「ポロテクスタントエージェントなんて適当につけた名前だ。存在しえない会社さ。すべてが俺の想像に包まれている。わかるか?菅野」
 菅野はその言葉が少し遠く感じた。面倒なので返事はしなかった。
「菅野、人生は無意味だ。おまえのしたことも、俺がしたことも、本当はたいした意味はない。ただしたいからした。それだけが理由だ。今もそれは続いている。確かに俺はあんたにちょっとしたトリックを仕掛けた。だけど後はあんたがしたいがままにしている。いいか、菅野、俺を悪人に思うな。俺はおまえの望みに応えているだけだ」
 菅野はその言葉に何かを言い返そうとした。しかし思うように口が動かない。手の指先で小さな震えを感じている。サングラスを通した暗いネオンの部屋に残されたわずかな視界さえも消えていこうとしていた。
 少しだけ動いた首の横で、すでに周二がぐったりしているのを目にする。
「てっめえぇ…」
 精一杯で出したその声、さらに何かを言いかけようとしたとき、すでに菅野の意識は闇の底へ葬り去られていた。暗いネオンの部屋にタバコの煙の臭いがツーンとしているのを無意識下に感じ、菅野は深い眠りへと落ちていった。
 時は闇の中へ消えてゆく。見えかけた答えはまた暗闇の個室で遠のいてゆく。

夢幻の灯火 6.白

  • 2008/08/30(土) 09:19:52


6. 白

 こんなに晴れているのにどんよりとしているのはなぜだろう。明るい空のずっと遠くを真っ黒な雲が包んでいるかのように、七月一四日の朝はあまりにすがすがしくなさすぎる。傷ついた新稲はぼおっと遠くの空を見やりながら時が過ぎるのを待っていた。
 荻野は山へ外出、陽子さんは町へと買出しに出かけた。菅野はこんな見ず知らずの男に家を空け渡していいものかと思いながら、居間のソファーに寝転がりテレビをじっくりと眺めている。
 内容のない話は話にならない。意味もない時の羅列を続けることは最悪の悲しみに等しい。ここで過ごす時間には意味もなければ生きがいもない。周二だけはそんな中を独り元気に出かけていったのだが、時を失った業務実行中の男と女にとってはどうでもいいことばかりが脳の中を巡る。
 この先にあるはずだった答えを持つはずの優作は謎めくままにいまだに部屋から出てくることはない。住み込み始めた幽霊のように重たい空気をそこにずしりと置いている。
 でも動かない。でも動かないことを続けてもしょうがない。もし現状に動く場所があるのなら菅野は不気味な幽霊とご対面を果たす必要がある。
 自動停止装置が起動していたテレビが消えて、菅野は心をきゅっと引き締める。ここがあるのは我がためだと言わんばかりの形相で、ソファーからむくりと立ち上がる。
「はじめまして、僕、このままじゃいけないことも知っているんだよね」
 相変わらず意味のわからない独り言を発して鏡を見つけて髪をかきあげる。胸ポケットからいつものサングラスを取り出し、きしりとかける。向かうは最奥の部屋に眠る謎めいた幽霊だ。
 最奥のずしりとした扉を開く。重みはあるが引きはいい。さっと開き、すうっと閉じる。
 優作はベッドの上に遺体のように手を組んで眠っていた。菅野はゆっくりと静かにベッドの横に移ってゆく。そしてベッド横で幽霊に生身の言葉を投げかける。
「君に、挨拶をしないと、いけないと、思って」
 優作はぱっと目を開く。眠っていたことは忘れたかのような速度で目は開かれた。
「力があるんですね」
 菅野はその優作の言葉の意味がわからず、目をぱちくりさせた。優作はにこやかな笑みで続けて喋る。
「とても強く、誰も近づけないように、ここにそんな結界が置かれていたはずなんです。あなたはそれを無視して、ここまで来てしまった。ただ鈍感なのか、それとも僕の勘違いなのか、いずれにしろ、あなたは僕のところまで来てしまいました。それで、僕を起こしてしまいました。あなたは、とても強いですね」
 菅野は頭をポリポリする。人間らしさをそこに置き、菅野は人間として幽霊のような優作と対立する。
「俺はなあ、ただいつまでもこんなんじゃ困ると思ってねえ。今起こりえる何かに進まないといけないわけで、つまりナ、あんたはその条件のど真ん中にいるわけだよ」
「勝手に置かれても僕は困ります」
「何でこんなことしているのか、俺だってわからねえよ。でもさあ、しなきゃいけないこともあるわけじゃん。それをずっと無視することもできないわけでしょ」
「だからあなたはここに来たたわけですか?」
「ああ、そうだけど」
「僕の側に来たことがいったい何だと言うんですか?確かに僕は誰にも会いたくなかった。あなたがそれを無視してやってきたことは認めます。だけど、だから何だと言うんですか?意味なんてないでしょ」
 菅野はその言葉に愕然とした。だけど仕切り直して、デスクのチェアーを持ってきて逆さにして背もたれを抱いて腰掛ける。唇をつまんで、三回ブルブルとさせる。
「いいか。それでも俺たちは、進んでいくわけだ」
 言葉はそれだけで途切れる。菅野は次の言葉を口に出そうと口を開くが伝えたい言葉が見つからない。優作は冷たい目で壁のほうを見つめている。
 再び仕切りなおそうと菅野はあちらこちらに目を泳がし言葉を探す。
「僕に、進めというんですか?」先に口を開いたのは優作の方だった。「行き場の失った僕に、それでもあなたは進めと言うんですか?」
「なら、そういうことだよ」
 菅野は本当のところでの意味はわかっていない。それでも現状を脱せそうな、優作のその言葉に乗じる。
「僕には、何もないんですよ。過去も、未来も、僕には何一つ与えられてないんですよ。こんな運命のない僕の人生を、先に進めなんて、あなたは酷いこと言いますよ」
「そんなの、わかんねえだろ。勝手に決め付けんな」
 優作はその言葉に微妙に首を横に振った。
「あなた、何も知らないのに、勝手なこと言いますね。勝手なことを…」
「なら何だよ。おまえの過去は何なんだよ」
 感性が切れている者同士だから繋がり合う。少し怒り口調で菅野が言ったのに、優作はどことなく嬉しさを感じた。
 少し間を置いて、優作は言った。
「どうしようか。少し考えますよ。少し時間をください。そしたら、彼女を連れて、ここにもう一度、来てください。そうしてくださいよ」
 菅野は口をへの字に曲げて少し渋ってから、小さく頷いた。もう一度出直さなくてはならない面倒さを思いながら、新稲のわがままを思いながら、体は自然とその部屋を後にしていた。
 ロッジでは傷ついた新稲が天を眺めている。ずっとずっと空の上の渦を巻く赤い鳥の群れを見つめて疲れた心を癒している。
 さあ菅野、君はこの存在に近づくのも面倒なはずだ。
 玄関の扉を開けると、新稲はそれにすぐ気づき、とぼけた目を菅野に投げかけた。菅野はクールな表情を装ってそこに動じず立っていた。
 コトコトと木の上で革靴の音を立てながら、菅野は新稲にゆっくり近づいてゆく。
「あいつと話をしてきた」
菅野は自然な口調で、そう言った。
 新稲はその言葉に冷たい表情を見せ、そっぽを向いてから口を開いた。
「なぜ、そんな真似をするんですか?彼は一人になりたいと」
「それじゃあさ、変わらないんだよ。このままであるわけにはいかないんだよ」
「ですが、時には時を待つことも必要なのではないですか?」
 新稲はそう言い放って、隣まで来た菅野のほうに目を向けた。菅野は少しそれに戸惑って頭を掻き分ける。小さな溜め息と同時に言い放つ。
「けど、俺、そういうの嫌なんだよね。面倒なのは今だろう?いつまでもこんなんじゃ、なあ」
 煮詰まった男と女の別れ話みたいだ。
「この先、東京に行くことでどうなるというのでしょうか?」
 新稲はまた青空を眺め直して、そう言ってみた。菅野に返す言葉はなく、確かに理解の範囲を超えていることを認めた。新稲の質問は肯定せざるをえない現実だった。
「私たちに与えられた一〇日間の使命に本来持っている理由はなく、運命的にこの場へ引き寄せられ、そして私たちはこの場に終わるのではないでしょうか?」
 新稲の表現はややこしい。
「あの言われた一〇日間のうちに起きる出来事ってのが藤村優作に会うということなのか?」と、菅野が簡略して訊ね返す。
「ええ、そうです。私たちは藤村優作という人物に出会い、彼との間の何かを果たすことで、決着がつくのではないでしょうか?だから私たちは、まだある数日間をゆっくりといいほうへと導いてゆくべきだと思うのです」
 鼻をいじって少し間を置く。
「うん、そう、君がそう思うんなら、それでいいけど、俺は彼と会った。もう一度、彼に会って、彼の過去の事、聞くつもりだよ。それには新稲、君にも聞いてほしいとよ」
 新稲は何も答えようとしなかった。幾分真剣なおもむきで、じっと唇を噛み締めていた。
「私も、まだ、わかりません」
 答えを求めない時間が菅野には苛立たしかった。それでも今は待つしかないのか、二人の整理がつくのを菅野は自分の言葉の中でまとめ上げようとしている。
「まあ、無理な要求はしないけどな。ほんと、考えないとな。じっくりと」
 彷徨い人の脳の中を語らなくては答えが出ない。菅野は自分のいる意味を考える。そして再び家の中へ。今がいい時間であることを知っている。
 三日居座って見慣れたいつもの居間を通り過ぎる。さっき通ったばかりの廊下を再び奥へと進んでゆく。たとえただの伝達人であろうと、菅野は何もせずに待っていることはできない。
 厚い扉を開けば、ベッドに横たわる男に変わりはない。永遠にこのまま時を消し去ってしまうかのように眠りつづけている。
 菅野は言う。
「君を起こさないと始まらないんだ。わかってくれよ。なっ!」
「彼女は?」
 優作は目を閉じたまま、そう訊ねた。
「新稲は、まだ、考えるとよ」
「つまりは、そう、僕も同じだよ。まだ、駄目なんだ」
 菅野はしかめっ面をして、腹に詰まった苛立ちを絞り出すように言う。
「いいかげんにしろ。いつまで待ってりゃあいいんだよ。何の問題もねえだろ?このまま永遠にこうなの?」
「それはわからない。だけど、僕も、彼女も、待ちたいんですよ。あなたの勝手な言い分で動くことなんて」
 菅野は自分の取っている行動が勝手な言い分なのかどうかを考える。
 確かに急ぎすぎたのかもしれないと、菅野は少し正直なところ思った。でも実際には遅れている。時間の流れは本来もっと速いものなのだ。二人のペースに合わせていることなんてできない事実もここにはあるのだ。
 背景の存在しない時間を後どれだけ過ごすのだろうか。考えても出ない答えなんて山ほどある。だから菅野は考えるのをやめた。
「わかった」と言って、菅野は首をブルブル振り、自分のおでこを掻いた。「いいよ。好きにすればいいさ。だけどなあ、俺もここにいつまでもいたくないんだ。だから、しばらく先に行かせてもらうよ」
「あなたはあなたの好きにしてください。あなたはあなたの自由なんですから」
 風を身にまとった旅人でありたい。それでいい。ここにあるペースに全体は同意するだろう。
 再び重い扉の外へ。廊下抜け、居間、玄関、さっと表、ロッジで空を見ている新稲を目に、また寄って、新稲の体勢をまねして、手すりにひじ掛け似たよなポーズ。チラッと横目に菅野は言う。
「俺、ここから出てくけど、おまえ、ここ、まだいるつもりか?」
 新稲もチラッと菅野のグラサンを覗く。
「私はこのままではありません。業務的にもあなたを一人にすることはできません」
 そしてまた雲のごとく静まり出し、地上から赤い鳥の渦巻く連なりを見つめる。
「そうか。じゃ、一緒に来るか」と、菅野はうなずく。
「いえ、行けません」と、新稲は即答する。
「じゃあ何だ。俺にここにいろって言うのか?」
「それも望みませんが、他にもう何があるわけでもありません」
「で、どうしろと?」
 新稲は周りを探した。自分たちが森の中にいることを実感する。揺れる木々の一つ一つが、新稲の視力を惑わす。夏草の匂いが鼻にかかる。
「死にます?」
 菅野は新稲のその言葉に微笑んだ。しばらく、にやりとしてから優しく答えた。
「そんな答え、あっていいわけないじゃん。そんな結末、望んで終わりにするのは俺のやり方じゃないじゃん。新稲、おまえを拉致する」
「私を、どうなさる、おつもりですか?」
 菅野は首を縦に振りながら言う。
「君に来てもらうよ。なっ」
「望みません」
 菅野はまたまた考える。口をもごもごさせて考える。時間はどんどん過ぎてゆく。すると少しずつ菅野は無駄な時間を過ごしていると考えることが面倒になってきた。無理に進む意味もなくなってくる。少しずつあらゆる自我が消えてゆき、自然とひとつの質問が現れた。
「新稲、何で行きたくないの?」
 根本を掘り返す。それが本来進むべき道なのかもしれない。
「私は…」
 新稲はそう言って言葉を詰まらせた。菅野は新稲の気持ちを促そうとする。
「言いたいことを言ってくれ。何でもいいや。もうこんなにわけわかんない状況なんだし」
 新稲は俯いて答えようとしない。菅野は訊ねる。
「なあ、あいつといったい何があったんだ。俺に聞かせてくれ」
 戸惑う新稲を菅野はじっと見つめる。感情論はそこには存在しない。ただ宇宙に浮かぶ宇宙物質が物体としての形を成すのを待っているみたいな感じで、菅野は新稲の言葉を待っていた。
「私は、彼と過ごした時間を忘れられません」
 新稲はゆっくりとそう呟いた。天の赤い鳥の渦はもう見ていない。静まり返った大地の上で緩やかな風に吹かれる白いドレスを身にまとった女性となって、新稲は心に通じる口を開いた。森は静かに揺れ、鳥と蝉の鳴く音に彩られる。
「今まで過ごしてきた一生の中で、彼との時間は唯一の安らぎでした。私がこのような仕事に巻き込まれたのも、結局、私の人生が荒れすさんでいたことにあると思うのです。それについての文句を言うつもりはありません。たとえどんな人生であっても、与えられた道をそれぞれに進んでゆくしかないのですから」
 一度呼吸を整える。
「私はただ、もう一度、彼と、安らげる時間を過ごせるのではないかと思いました。でもそれは、勘違いにしかすぎません。彼には、本来の自分があって、私にはここにある人生しかありません。あらゆるものが結び合ったほんの小さな夢は、もう終わってしまいました。きっと、それでも、私は彼に、もう一度何らかの手助けをしなくてはならないのではないかと、そう思います」
 気持ちは強く、菅野のハートを打ち砕いた。魂は存在している。伝わってくる感情に菅野は思わず目が潤んだ。菅野の退屈な人生にはあるはずのない世界が目に見えずとも重くのしかかってくる。菅野は何度も頷いた。そして言葉を失った。
 切なすぎて常に言葉足りず。

 気さくな陽子さんは昼前に帰ってきた。優作の事を気遣いながら、お昼の準備を手伝うことを新稲に求めた。壊れかけていた気持ちが現実に連れ戻され、菅野は辺りにあるものを理解した。
 腹の虫が知らせたのか、周二と荻野もすぐに戻ってきた。湖をぷらぷらと歩いていた周二に荻野が声をかけたそうだ。荻野はその間ずっと青星花草が無事だった話をしていた。
「昨日の雨で、本当どうなることかと思ったけどね、結構そういうのには強いんだよねえ」なんてみたいに話していた。
 買い出し終わりの陽子さんはスープスパゲッティを作った。さっぱりしたコンソメスープで、みんなおいしくいただいていたが、少し熱かったみたいだ。そのスープスパゲッティは陽子さんの気遣いで優作にも与えられた。そのスパゲッティの空皿を持って、優作が居間に現れたのはちょうど一時を回ったときのことだった。彼は施設に飯を求めえてやってきた乞食のようにツタツタと歩いてきた。
「優作君!」
 これから出かけようとしていた荻野が驚いた声でそう言った。
「お風呂は入れますか?」
 優作は持っていた皿とフォークを流しに置いてから、陽子さんに向かってそう言った。
「今はまだ。洗い直して、沸かさないと」
「わかりました。自分でやります」
 乞食のような優作はそう言って、ふらふらと廊下の奥に消えていった。
 陽子さんは荻野を見て、周二は菅野に目をやり、菅野はサングラスの奥で新稲を見つめ、新稲は奥へと消えてゆく優作を目で追った。
それでも「いってらっしゃい」と陽子さんは言って、「ああ、行ってくる」と荻野は普段どおりの態度を見せて言い返す。
 荻野が靴を履いて玄関を出てゆく。と同時に新稲が席を立ち上がる。玄関の扉がパタンと閉まり、新稲はそれを耳に廊下の奥へと消えてゆく。
「菅野さん、いいんですか?」と、新稲に目をやる周二が訊ねる。
「ああ、今はな」と、菅野は小さな声でそう言い返した。

 浴槽を洗う優作に脱衣室から新稲が緊張して訊ねた。
「もう、よろしいのですか?」
 優作は新稲のほうを見ずに、必死になって浴槽をこすっていた。そして浴槽をこするリズムに合わせて、新稲への言葉を伝えた。
「僕は、正直、君の事わかってないよ。僕は僕だよ。一年前、ここにいたとき、僕は君の知る僕じゃなかった。今の僕が僕で、君の知る僕は、きっと僕の夢で、僕の夢にいた僕は、本当の僕じゃあないから。藤村優作って言うのは、僕だよ。君の知っているのは、僕じゃない。それが、僕の、答えだから」
 スポンジで泡いっぱいになった浴槽を汲まれた桶の水で流す。綺麗に流れてゆくその泡の一つ一つに優作は自分の中にあったもやもやを重ね合わせていた。流れゆく泡が側溝へと消えてゆく。
 聞こえてきた声を新稲が拾う。
「あなたは、これからどうなさるおつもりですか?」
「何度でも、何度でも、帰るつもりだよ。本来僕のいるべき場所に」

 僕は誰なんだろう?僕はどこにいるんだろう?そして僕はどこに行こうとしているんだろう?何もわからない。だけど僕は何度でも自分の居場所に帰るんだ。

 新稲はそこにあるもうひとつの声を聞いていた。そして、その言葉に新稲は答えた。
「私がお手伝いします。あなたがあなたのいるべき場所に帰るために」
 水道の蛇口をひねると、ヒノキの湯船にお湯が叩きつけられる音がしてきた。
「君は僕の事を何も知らないのに、僕の手助けをするつもりなの?」
 優作はそこで初めて新稲の目を見た。優作の目はまだ恐れでいっぱいのようだ。その瞳の奥には光の届かない暗闇がグズグズと煮えたぎって用意されていた。
 新稲はその目を見て少しおののいた。でもすぐに立ち直り、考えを主張する。
「これは正しい流れなのです。あなたがどんな人であろうと、私たちはあなたを助けることに決まっております」
「おもしろいことを言うなあ。まあ、君がどう思おうといいよ。君たちが変わった人間であって、僕はそれ以上に変わった人間で」
「もう一度、全ての物をまとめて答えを出してゆかなければなりません。あなたが中心となって、私たちはそれに関わってゆきたいのです」
 優作は腰にと手を当て、少し考えてから、ゆっくりとうなずいてみせた。
「いいよ。その前にお風呂に入るけどね」

 そのころ居間では周二にせかされた菅野が話し出していた。
「何が何って言われてもナ、難しいんだよな」
「ごまかさずに話してくださいよ。わけわかんね」
 菅野は頷く。そして答えを探す。そこへ新稲が戻ってくる。みんなが新稲のほうを見つめる。新稲は菅野の前の空いた席に座る。
 四人がけのテーブルに、菅野と周二が隣り合って、菅野の正面に新稲が座り、残りの一つに陽子さんが座る。
 静かな部屋に冷房の音が鳴り響く。奥からは湯船にお湯の溜まってゆく音がする。新稲は冷静になって口を開く。
「私たちは冷静にすべてを告白しなくてはなりません。この問題に関わる限り、私たちはしっかりとした理由を持たなければいけません。私と菅野さんはもちろんですが、陽子さんと周二さんはまだわかりません。この問題に関わるべきか、話をしなくてはならないのです」
「わたしは」陽子さんは言う。「もし、その問題というものが、優作君に関する問題とすれば、当然私の問題でもあるの」
 新稲はその答えに何も言わず頷く。そして周二のほうを見つめた。
「俺?いや、何もないけど。俺はただ、君のために…。なんて駄目?」
 表情を変えない新稲。
「駄目です。これはそんな単純なものではありません」
「ちょっと待て」と、菅野が割り込む。「俺はこの男をこのわけのわからない問題の答えに結ぶ奴と認めて連れてきたんだ。だから、俺はこいつにも関わってもらう」
「たまにはいいこと言うねえ、菅野さん」
「ですが…」
「ですが、はない。これは俺の決断だ」
「わかりました。では、ここに関わる人物を私と菅野さんと陽子さんと周二さん、それから藤村優作さんということにします。その他に、荻野さんは?」
 チラッと、陽子さんのほうを向く新稲。
「ええ、彼はいろいろ知っているの。だから関わるべきね」
「そうですか。でしたら、それで」
 湯船に汲まれるお湯の音が止まる。優作がお風呂に入りだしたのだろう。
「ちょっと、コーヒーでも飲みましょうか?」
 陽子さんはそう言って立ち上がる。新稲もそれに合わせて立ち上がる。これから来る長い話し合いに向けてのブレイクタイムをここに置く。
「菅野さん、いったいどういうことなんですか?」と、周二が訊く。
「まあ、俺もよくわからん」
「じゃあ、どうするんですか?」
「周二君。俺に思い当たる節がある。もしよければ君は俺についてきてほしい」
「どういうことですか?」
「いいから、やっぱしこのままじゃ納得いかないんでねえ」
「で、どうするんですか?」
「確か、車が置いてある側に、小さな物置があった。そこに多分ガソリンの控えがあるんだ。君はそれを盗んで、俺はこの家の車のキーを盗む」
「なんて事を!」
 菅野は少し大きな声になった周二の口をふさぐ。
「シー、いいから」と、小声で。
 陽子さんと新稲はいつものバカ二人と思い込んで菅野たちの方を気にしない。
 菅野は落ち着いて、再び周二に言う。
「いいか、これは結構な作戦だ。俺がスタートと言ったら、自然に外に動き出せよ」
 周二は緊張しながらコクリと頷く。菅野は陽子さんと新稲がキッチンの流しのほうを向いている習慣を見計らって、「スタート」と小声で叫ぶ。
 と同時に、周二は不安そうにムクリと立ち上がり、玄関の外を目指す。菅野はすっと立ち上がり、陽子さんと新稲がコーヒーを用意するキッチンに向かう。
「あれ、周二君は?」と、何かを感じ振り向いた陽子さんが口にする。
「ん、なんだかなあ。あいつの行動はわからん」と、菅野はごまかす。
 陽子さんは小さく首を捻ってからおぼんを取る。新稲が優作のほうを気にして廊下の奥を見た隙に、菅野は食器棚の横のフックにかけられていた車の鍵をすうっと取って、ズボンのポケットにしまう。見事に音を立てることなく、そいつはしまわれた。
「周二の奴、どこ行ったんだ」なんて小さな独り言をぼやいて、菅野は玄関の外へ出てゆく。
 陽子さんはおぼんの上にコーヒーカップを乗せ、新稲は菅野の行動を少し不審に思いながらも優作のほうを強く気にかけていた。
 外ではすでに小さなボックスに入った予備のガソリンを周二が見つけ出していた。
「これかなあ」
 周二は近づいてくる菅野に不安そうにそう訊ねた。
「オッケー。大丈夫。さあ、行くよ」
 菅野はそう言って、ご機嫌良さそうに大きな四駆に乗り込む。
 周二は家の中の新稲を少し気にかける顔をしながら、ガソリンタンクをしっかり抱いて、車の助手席に乗り込んだ。
 キーが回ると、エンジンが唸る。エンジン全開。
 プッ!プウゥーー!!!
 菅野はでかい音でクラクションを鳴らす。
「何すんの?」と、周二が驚く。
「いいんだよ」
 家の中から陽子さんと新稲が飛び出てくる。
ブルウーン、ズズズズゥーと言って、車は派手にスピンして、玄関の側に寄った。少し上った階段上の玄関から、たまげた陽子さんと新稲が姿を現す。助手席の周二が窓を開く。
「何をしようと言うのですか?」と、新稲が訊ねる。
 周二は助手席で何も言えず、運転席でサングラスをかけた菅野が悪そうな顔で笑っている。
「ちょっと思い出したことがあって、それで、ちょっと行かしてもらうよ」
「しかし、まだ、まとめの話が」
「新稲!」菅野の声は大きい。「俺はこのままじゃいられないんだよ。このままの俺じゃあ、俺じゃないんだ。しっかりとした答えを持って、もう一度ここに来る。だから、俺を信じろ。俺には俺のやることがある。おまえと一緒に過ごすって言う契約破るけど、そんなの俺の知るところじゃねえ。俺は、俺らしくやっていくよ」
「私は、どうすれば」
「おまえは、優作とかいう男の事を考えろ。今はそれでいい」
 菅野はでかい声でそう怒鳴ってから、改まって陽子さんにお辞儀をする。
「申し訳ありません。この車で数キロ先の自分の車を取りに行きます。そしたら、すぐに返しますんで」
「こんな派手なまねをしなくても」
 陽子さんはそう言って笑っていた。
「こんなまねでもしないと、自分の決心が弱るんでね。それから新稲に対しての見せつけです。本当にすいませんね」
 菅野はそう言ってもう一礼すると、オートマのギアをドライブに入れた。
「じゃあ」
 そして、車は静かに走り出す。